昼前から、町内放送が断続的に流れ始めた。大雨への注意、川沿いへの立ち入り自粛、低い土地への備え。以前なら曖昧な呼びかけにしか聞こえなかったはずの言葉が、その日はひとつひとつ写真の粒と重なって聞こえた。私は自治会館へ向かい、顔見知りの職員に頼み込んで簡単な地図を広げてもらった。地下道、高架下、商店街の裏路地、保育園の送り迎えが集中する時間帯。祖父の残した赤い丸に、自分が歩いて知った危うい流れを重ねて話す。写真のことは言わない。ただ、水が来たとき人が詰まる場所と、先に開けておくべき道を伝えた。怪訝そうだった顔が、外の空を見た職員の目つきと一緒に少しずつ変わっていく。 午後、雨脚は一段深くなった。駅前の舗道は鈍く光り、排水口が追いつかない水を吐き戻している。私は商店街の店主たちに声をかけ、看板を寄せてもらい、段差に滑り止めの板を置いた。写真に写っていた雑貨店の夫婦も手伝ってくれた。高架下では催事の責任者が通路を広げ、若いスタッフたちが誘導用のロープを張る。誰も未来を知っているわけではないのに、ひとつ動けば次の人も動く。その連なりを見ながら、祖父の言葉が胸の中で静かにほどけていった。先に繋げ。きっとこういうことだった。 夕方近く、川の水位が一気に上がったという知らせが入った。避難を急ぐ人が増え、堤防脇の道へ人波が寄り始める。私は祖父の地図を握り、写真に写っていた場所へ向かった。雨は横殴りで、視界の端が白くかすむ。地下道へ降りかけた人を地上へ促し、商店街へ流れそうな人を広い通りへ回す。消防団の人、近くの店主、駅員、保育園へ子どもを迎えに来た母親たちまで、自然に声を掛け合い始めていた。 そのとき、胸ポケットの中の写真が濡れた指に触れた。私は足を止め、堤防脇の分岐の真ん中に立った。まさに、写真の中の自分と同じ位置だった。立ち尽くしているのではない。ここからなら、右へ行く人にも左へ迷う人にも見える。私は腕を大きく上げ、こちらです、と何度も叫んだ。声は雨に削られたが、近くの誰かが同じ言葉を繰り返し、そのまた向こうで別の誰かが手を振った。細かった合図は、道の上を渡る一本の綱みたいに伸びていく。 やがて川沿いの一部に水があふれ、低い場所では膝下まで一気に水が広がった。完全には防げなかった。写真にあった赤い非常灯も、現実の雨の中で滲んだ。それでも人の流れは崩れず、転倒も押し合いも最小限で済んだ。消防車の音を聞きながら、私はようやく理解した。未来は消すものではない。襲ってくる波の形を知ったうえで、飲まれない並び方を選び取るものなのだと。濁った水面の向こうに、祖父の背中が一瞬だけ重なって見えた気がした。
残像のシャッター、明日へ余白を残す
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