昼過ぎ、空は朝よりも低くなっていた。雲が町の輪郭を押しつぶすみたいに垂れこめ、遠くの堤防さえ霞んで見える。自治会館の前では、簡易の雨具を着た人たちが忙しく行き来し、昨夜まで見慣れていた顔に、今日ははっきりした役目の色があった。私は祖父の地図を開き、何度も指でなぞった赤い丸をもう一度確かめる。そこに写っているのは危険そのものではなく、人が迷いやすい場所だ。そう思うと、胸のざわつきは不思議なくらい静かになった。 新しい写真には、これまでで最大の前兆が写っていた。堤防脇の道にあふれる人波、地下道の入口で立ち止まる傘の群れ、商店街の角で風にあおられる看板、その奥で薄く広がる水。中央にはまた私がいる。けれど前のような立ち尽くした影ではなかった。少し体をひねり、誰かに道を示す途中の姿に見える。未来を変えようとして別の危機を呼んだ日々の果てに、ようやく分かったのだ。目の前の一つを消しても、町全体の流れが詰まれば意味がない。必要なのは、出来事をなくすことではなく、選べる余地を残すことだった。 雨が強まる前に、私は持ち場を回った。地下道の前には職員が立ち、早めの封鎖と迂回の案内を始めている。商店街では店主たちが看板をたたみ、滑りやすい場所に板を敷く。高架下広場では人を溜めないよう、若いスタッフが次の避難先を繰り返し伝えていた。私一人が走り回っていたころには見えなかった景色だ。声は声を呼び、準備は別の準備を生む。祖父が残した先に繋げという言葉が、ようやく町の中で形になっていた。 やがて警戒の放送が変わり、避難を強く促す声になる。川沿いの一部で水があふれたという連絡が入ると、人の流れが一斉に速くなった。私は写真にあった分岐へ向かった。ここで誰もが同じ方角だけを見れば、連鎖は一気に大きくなる。だから道の真ん中に立ち、左は駅前広場へ、右は高台へと腕で示す。近くの消防団員が私の声を拾い、商店街の主人がさらに先で繰り返す。保育園帰りの母親たちも、子どもの手を引きながら後ろへ声を渡した。人の波は何度か揺れたが、押し合いにはならず、細い水路のように二つの流れへ分かれていく。 その最中、胸ポケットの中でカメラがひどく軽く感じられた。役目を終えかけた道具の静けさに似ていた。雨の幕の向こうで非常灯が滲み、写真にあった光景は確かに現実になりつつある。それでも同じではない。私の周りには、もう私一人しかいない未来ではなく、選びながら動く人たちの現在があった。完全には消せない日がある。祖父はたぶん、それを知ったうえで記録し続けたのだ。 夕方、低い場所の冠水は広がったが、避難の列は保たれ、大きな混乱は起きなかった。濡れた道路に立ち尽くしながら、私は写真の中の自分にようやく追いついた気がした。待っていたのではない。誰かが選べるように、そこに立っていたのだ。
残像のシャッター、明日へ余白を残す
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