エラベノベル堂

だし香る午後、卵焼きに帰る

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3章 / 全10

玄関のチャイムが鳴ったのは、まだ湯気の残る皿を前に、綾香がもう一口いくか迷っていたころだった。指先に卵焼きの甘い匂いがうっすら残っている。こんな時間に誰だろう、と首を傾げながら立ち上がると、ドアの向こうから小さな声がした。 「すみません……あの、卵焼き、作ってました?」 綾香は思わず目を瞬かせた。ドアを開けると、隣の部屋の少年が立っていた。少し気まずそうに視線を泳がせながら、それでも鼻先だけは正直に、廊下の空気を吸い込んでいる。 「朝の匂いに、つい誘われてしまって」 「朝の匂い?」 「はい。なんだか、すごく落ち着く匂いで」 少年はそう言ってから、慌てたように頭を下げた。 「変でしたよね。ごめんなさい。それで……もしよかったら、卵焼きの作り方、教えてもらえませんか」 綾香は一瞬、返事に詰まった。見知らぬ相手なら断っていたかもしれない。でも、少年の目はからかいではなく、本気だった。さっき自分が感じた、足りない何かを探すような真剣さがあった。 「教えるほどじゃないけど」 そう言いかけて、綾香は自分の皿を見た。祖母の面影を追って作った卵焼きだ。ひとりで抱えているより、誰かに少し分けたほうが、この甘い匂いは落ち着く気がした。 「……少しだけ、食べてみる?」 少年の顔が、ぱっと明るくなる。 「いいんですか」 「うん。作り方の前に、味を確かめてみて」 綾香は皿を持って台所へ戻り、小さく切り分けた一切れを口元に近い場所へ置いた。少年は両手で受け取ると、まるで大切な贈り物みたいに一口かじる。 「……やさしい味です」 その言葉に、綾香は少しだけ肩の力が抜けた。 「やさしい、ね」 「はい。なんというか、朝の匂いがそのまま形になったみたいです」 綾香は思わず笑ってしまった。変な表現なのに、なぜかぴったりだった。 「じゃあ、次はちゃんと教える。卵の混ぜ方から、火の加減まで」 「お願いします」 少年はそう言って、まだ少し残る香りを名残惜しそうに吸い込んだ。綾香は皿を持ったまま、ふと祖母の手つきが脳裏をよぎるのを感じた。あの人もきっと、こんなふうに誰かに作り方を渡していたのだろう。玄関先には、卵焼きの甘さと、これから始まる何かの気配が静かに残っていた。

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