朝の片づけを終えたあとも、私は台所の前を何度も通り過ぎた。卵焼きはもう食べたはずなのに、あのやわらかな余韻がまだ指先に残っている。母は流しで鍋を洗いながら、今度は少し甘みを戻してみてもいいかもしれないねと言った。弟は、焼きたてを待つ時間がいちばん楽しいのだと、得意げに空の皿をのぞき込む。私は笑って、でも今日はこのくらいがちょうどいいと答えた。 そう言いながら、ふと気づく。さっきまで私は、昔の味に追いつこうとしていたのではなく、今いる場所を確かめたかったのだ。祖母の台所、母の助言、友人の好み、弟の素直な感想。それぞれ違う声がひとつの鍋に集まって、火の上で静かに混ざっていた。卵が固まるあの短い時間は、ひとりで抱え込んでいた迷いを、少しずつほどいてくれる。 午後になると、母がもう一度卵を割り始めた。今度は私も隣に立つ。砂糖は控えめに、だしは昨日より少しだけ多く。箸を動かしながら、私は焼き色の具合を見守った。表面がふくらみ、角がほどける。巻くたびに形は変わるのに、不思議と前より落ち着いていた。誰かの記憶をなぞるのではなく、今日の自分たちの手で作っているのだと思えたからだ。 焼き上がった卵焼きを切り分けると、湯気の向こうで黄色がやさしく光った。ひと口食べた母が、これならお弁当にも入れたいねと言い、弟は次は二切れほしいと急かす。私は笑って、うん、また焼こうと答えた。その声が思ったより自然で、少し驚く。胸の奥にあった空腹はいつの間にか満たされ、代わりに、誰かと同じ皿を囲むうれしさが残っていた。 そのとき玄関のチャイムが鳴った。届いたのは、遠くに住む祖母からの小包だった。開けると、中には古いアルバムと、たった一枚の手紙が入っている。そこには、あなたの卵焼きがいちばん好きだったと、丸い文字で書かれていた。私は箸を持ったまま、しばらく動けなかった。
だし香る午後、卵焼きに帰る
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