エラベノベル堂

だし香る午後、卵焼きに帰る

全年齢

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4章 / 全10

綾香は少年を台所へ案内したまま、卵焼きの切れ端が乗った皿を片づけかけて手を止めた。少年は少し緊張した顔で、胸の前に大事そうに紙の束を抱えている。 「これ、祖母が持ってたメモなんです」 「メモ?」 差し出された紙は、何度も折りたたまれて角がやわらかくなっていた。綾香がそっと受け取ると、紙面には買い物の順番や分量らしき走り書きのほか、見慣れない名前が並んでいる。卵、砂糖、みりん、その横に配り先らしい短い言葉。そして、最後のほうに市場の名前が小さく記されていた。 綾香は息を呑んだ。 「これ……」 「祖母が、古い箱の中に入れてくれていたんです。作り方を見せてくれたとき、これも一緒に」 紙を追う指先が止まる。そこに書かれた字は、どこかで見たことのある癖をしていた。丸みのある線、少し急いだみたいなはね方。祖母の、あの文字に似ている。 「この市場、うちの祖母がよく話していた場所と同じだ」 綾香がぽつりと言うと、少年は目を丸くした。 「え」 「子どものころ、ここで卵焼きを作っていたって。詳しくは聞けなかったけど、毎年のように行く日があったみたいで」 紙の端を見つめたまま、綾香は胸の奥が静かに波立つのを感じた。祖母はただ料理をしていたのではない。誰かに渡すための卵焼きを、ずっと前から用意していたのかもしれない。 少年もまた、メモのある一行を指でなぞりながら、少し声を落とした。 「祖母は、これを見せるたびに『迷ったら味じゃなくて、届ける相手を思いなさい』って言ってました」 「届ける相手」 綾香はその言葉を反芻した。さっきまで、ただ懐かしいだけだった匂いが、急に別の輪郭を持ちはじめる。甘さの向こうに、受け取る誰かの顔がある。祖母はその景色を、ずっと見ていたのだ。 「ねえ」 綾香はメモを持つ手にそっと力を込めた。 「これ、もう少し見せて。書かれてること、ちゃんと確かめたい」 少年はうなずき、紙を開く。台所の小さな明かりの下で、折り目の奥からさらに細い文字が現れた。二人の間に、卵焼きの残り香とは別の、静かな熱が満ちていく。

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