エラベノベル堂

だし香る午後、卵焼きに帰る

全年齢

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5章 / 全10

「……この字、やっぱり祖母のだ」 綾香は、台所の明かりの下で紙面を指でなぞった。何度も折りたたまれた跡のせいで少し波打っているのに、そこに残る言葉は意外なほどはっきりしている。卵、砂糖、みりん。配る。市場。日付の横に、丸で囲まれた小さな印。 少年は紙の端を押さえながら、首をかしげた。 「毎年、同じ日なんです。祖母は、これを見ると必ずそわそわしてました」 「そわそわ?」 「はい。早起きして、忘れ物はないかって何度も確認して。なのに、楽しそうで」 綾香は唇を結んだ。祖母がそんなふうに市場へ向かっていた姿は、想像するだけで胸の奥があたたかくなる。だが同時に、なぜわざわざ毎年決まった日だったのかが、わからないままだった。 そのとき、店の奥から年配の店主が湯飲みを置く音がした。 「それ、きっと約束だねえ」 二人が振り向くと、店主はカウンター越しに目を細めていた。 「約束?」 綾香が聞き返す。 「人はね、思い出したいから同じ日に行くんじゃない。忘れたくない相手がいるから、同じ日に行くんだよ」 少年が目を見開く。 「じゃあ、祖母は……」 「誰かに渡すためじゃなくて、渡し続けるための約束をしていたのかもね」 店主の言葉に、綾香は息をのんだ。卵焼きの匂いを追っていたつもりが、いつのまにか、祖母が守っていた見えない輪の中に立っている。味の記憶はひとつの入口にすぎなかったのだ。 「市場に、行ってみます」 綾香が言うと、少年はすぐにうなずいた。 「俺も行きます。メモのこと、もっと知りたいです」 「ええ。行かなきゃ、たぶん何もわからない」 綾香は紙をそっと畳み直した。折り目の先に、まだ読めていない細い文字が隠れている気がする。 店主は湯気の立つ湯飲みを置いたまま、にやりと笑った。 「だったら急ぎなよ。行くなら、日が高いうちがいい」 綾香は立ち上がり、少年もそれに続く。喫茶店の扉の向こうに、午後の光が白く傾いていた。祖母が守っていた約束が、あの市場のどこかで今も息をしている。そう思うと、足元が少しだけ速くなる。 「行こう」 「はい」 二人は顔を見合わせ、紙をしまって店を出た。次に開く扉の先に、まだ知らない答えが待っている気がした。

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