祖母の電話を切ってから、しばらく私は卵焼きの皿を見つめていた。来週、祖母が本当にやって来る。あの手紙は少し大げさだったのではなく、ちゃんと予告だったのだ。母は目を丸くし、弟は急に張り切って、今度こそ自分が焼く番だと言い出した。台所の空気が一気に賑やかになる。私は笑いながら、なら練習しなくちゃねと返した。 それから毎日、夕方になると誰かしらが卵を割った。甘さを少し戻した日もあれば、だしを立てて落ち着かせた日もある。最初は火加減に振り回され、厚みもまちまちで、切り口が崩れることもあった。それでも不思議と失敗とは思わなかった。焼き上がるたびに、家族の誰かがひと口つまみ、ここは良い、ここは惜しいと笑ってくれる。そのたびに、卵焼きは少しずつ私たちの味へ近づいていった。 そして祖母が来た日、私たちは朝から台所に立った。母が道具を並べ、弟が皿を温め、私は祖母のためにと少しだけ厚めに焼いた。やわらかい黄金色が重なっていくのを見ながら、胸が不思議なくらい静かだった。祖母は玄関をくぐるなり、台所の匂いを吸い込み、これはもう帰ってきた味だねと言った。 食卓につくと、私たちは揃って卵焼きを口に運んだ。祖母はひと口目で目を細め、母は少し誇らしげに背筋を伸ばし、弟は熱い熱いと騒いだ。私は最後の一切れを口に入れた瞬間、思いがけず息をのんだ。懐かしいはずの味が、祖母のものでも、母のものでも、昔の私のものでもない。いくつもの手と時間が混ざって、まったく新しいやさしさになっていた。 そのとき祖母が、あら、と小さく声を漏らした。皿の端に置かれていたのは、私が焼いた卵焼きではなかった。祖母が持ってきた古いアルバムの間から、黄色く色あせた紙片が落ちていたのだ。そこには、見慣れない筆跡で、卵焼きの本当の作り方が書かれていた。砂糖もだしも、私たちがこれまで確かめてきた配分とは少し違う。 祖母はそれを見て、そういえば昔は忙しくて、途中で覚え違いをしたかもしれないねと笑った。私は箸を止めたまま、何度もその紙片を見た。私たちが追いかけていたのは、最初から完成した記憶ではなかったのだ。迷いながら重ねた手順こそが、いまの家族の味になっていた。窓の外で夕方の光が傾き、食卓の上の卵焼きだけが、やけにやさしく輝いていた。
だし香る午後、卵焼きに帰る
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