エラベノベル堂

だし香る午後、卵焼きに帰る

全年齢

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6章 / 全10

市場の入口に立つと、午後の光はもう少し傾いていて、軒先の影が長く伸びていた。閉まりかけの空気のなか、綾香は紙を畳んだまま胸の前に抱える。少年は少し息を弾ませながら、横であたりを見回していた。 「まだ、間に合いますか」 「たぶんね。人が減ってるぶん、見つけやすいかも」 そう言いながらも、綾香は胸の奥の落ち着かなさを隠せなかった。祖母の名前を口にするだけで、ここで何かが動く気がしていたのだ。 露店のひとつに、年季の入った木箱が並んでいる。そこにいた露店主が、綾香の顔を見るなり、ふと目を細めた。 「ん? その顔、どこかで見たな」 綾香は一歩近づく。 「すみません。祖母が、白石綾という名前だったんです。ここに、来ていましたか」 露店主は一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。 「ああ。白石さんか。よく覚えてるよ。毎年、決まった日に来てた」 少年が身を乗り出す。 「卵焼きを、配ってたって本当ですか」 「本当さ。子どもらがわらわら寄ってきてね。白石さんは笑いながら、ひとつずつ渡してた。あの甘い匂いがすると、みんな足を止めたもんだ」 綾香の喉がきゅっと鳴る。 「……祖母が、そんなことを」 「それだけじゃない。いつも古いエプロンをしてたよ。ほら、端っこに小さな花が縫ってあるやつ。あれを見ると、今日は来たんだなってわかった」 古いエプロン。綾香の脳裏に、記憶の底で眠っていた布の感触がかすかに触れた気がした。祖母の台所姿と、この市場のざわめきが、見えない糸で結ばれていく。 「そのエプロン、まだあるんですか」 綾香が問うと、露店主は少しだけ眉を上げた。 「さあな。しまい込んだのか、誰かに預けたのか。けど、確かにあったよ。白石さんは、あれを付けるときだけ少し顔つきがやわらかかった」 少年が、紙を握る手に力を込める。 「祖母のメモにも、ここで渡すって書いてありました。あの人、ずっと続けてたんですね」 「そうだろうねえ」 露店主は市場の奥へ目をやった。 「もう店じまいだ。けど、昔のことなら、まだ覚えてる者はいるかもしれない」 綾香は静かに息を吐いた。探していたのは味だけじゃない。祖母が誰かに差し出していた時間そのものだ。 「もっと話を聞きたいです」 すると露店主は、少しだけ口元をゆるめた。 「なら、こっちへ来な。風の当たらないところで、もう少し思い出してやるよ」 綾香は少年と顔を見合わせ、うなずく。閉まりかけの市場の奥で、古い約束の輪郭が少しずつ浮かびはじめていた。

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