エラベノベル堂

だし香る午後、卵焼きに帰る

全年齢

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7章 / 全10

露店主のあとについていくと、表通りの喧騒はすぐに遠のいた。荷物を置くための細い通路を抜け、積まれた箱の影を縫うたび、昼の熱が少しだけ和らいでいく。綾香は紙を胸に抱えたまま、周囲を見回した。 「この先に、あるんですか」 「たぶんな。昔はここに、空き箱をまとめる倉庫があった」 露店主の声は、閉店間際の市場に似合う低さだった。少年が小走りになりながら続く。 「祖母がいた場所、まだ残ってるんですね」 「残ってるというより、置き去りだな」 その言葉に、綾香は不思議と胸をつかれた。祖母の記憶も、こうして誰かの手から手へ渡らないまま、見えない角に積まれていたのかもしれない。 倉庫の前に着くと、木の扉は少し歪んでいて、鍵はかかっていなかった。露店主が片手で押すと、きぃ、と乾いた音がして、内側の暗がりが口を開ける。埃の匂いの奥に、古い紙や布の気配が混じっていた。 「このへんだ。白石さんが、最後にここへ置いたって聞いてる」 綾香は息をのんだ。床近くの棚の下、板の隙間に小さな箱が押し込まれている。誰かが忘れたというより、わざと隠したみたいな置き方だった。 「……これ?」 少年が身をかがめる。 「そう、たぶんそれです」 綾香はそっと箱を引き出した。蓋には薄い布がかけられ、端には見覚えのある丸みのある筆跡で、短い記号のような字が残っている。指でなぞると、時間の厚みがそのまま伝わってくる気がした。 「開けてみよう」 露店主にうながされ、綾香が慎重に蓋を持ち上げる。中には、卵焼き用の小さな型がひとつ、静かに収まっていた。使い込まれて角がやわらかくなっているのに、金属の表面にはまだ鈍い光が残っている。 「これ、卵焼きの型……」 少年が目を丸くした。 「こんなのがあったんだ」 型の横には、白い封筒が折れないように重ねて入っていた。綾香は一瞬ためらい、それから封を切る。中の紙を開いた途端、祖母の字が視界に飛び込んできた。少し急いだような、それでも丁寧な線。 綾香へ。 その一行だけで、胸の奥が熱くなる。 続く短い文を追うたび、綾香は呼吸を忘れそうになった。味は思い出を運ぶ。たったそれだけの言葉なのに、台所で揺れていた匂いも、食卓でこぼれた笑みも、全部ひとつに結ばれていく。 「……味は、思い出を運ぶ」 声に出すと、紙の文字が少しだけあたたかく感じた。 少年も、覗き込むように手紙を見つめる。 「短いのに、すごく残りますね」 綾香は笑いかけて、でもうまく笑えなかった。祖母は、何を残したかったのだろう。卵焼きの作り方だけじゃない。誰かの心に残る、もっとやさしい何かを。 露店主は箱の脇にしゃがみ込み、懐かしそうに息を吐いた。 「白石さんらしいな。むずかしいことは書かない人だった」 綾香は手紙を胸に寄せる。紙越しに伝わる弱いぬくもりが、なぜだか泣きたくなるほど確かだった。 「ありがとうございます。見つかって、よかった」 そう言うと、露店主は小さく頷いた。倉庫の入口から差し込む光が、箱の中の型を細く照らしている。綾香はその光を見つめながら、祖母がここで何を思い、何を託したのかを、まだ全部は知らないまま、ただ一歩近づいた気がした。

7章 / 全10

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