エラベノベル堂

だし香る午後、卵焼きに帰る

全年齢

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7章 / 全10

祖母の紙片が示した配分を前に、私はしばらく箸を持ったまま固まっていた。だしは思っていたより少なく、砂糖も控えめだ。これならもっと甘いはずだと決めていた自分の記憶が、音を立てて揺らぐ。母は肩をすくめ、昔の家の台所なんてそんなものよと言った。弟は、要はおいしければ勝ちだと笑う。祖母だけが、少し申し訳なさそうに、それでも私はあの頃の味をちゃんと覚えていたつもりだったのよと目を細めた。 その言葉で、胸の奥がひやりとした。私は懐かしさを追いかけていたのではなく、確かな正解を見つけたかったのかもしれない。けれど、正しさを探すほど味は遠のいていく。ならばいっそ、今ここで焼き直そう。私は紙片をテーブルに置き、もう一度卵を割った。黄身が器の底で揺れ、白身が遅れて広がる。砂糖は少しだけ、だしは紙片どおりに、塩は指先で迷ってからひとつまみ。\n 最初の一枚は、火を弱めるのが遅れて端が少し固くなった。焦った拍子に巻き方も崩れ、見た目は正直きれいとは言えない。それでも、祖母はそれを見て笑わず、少しだけ火が強かったねと穏やかに言った。次は弱めすぎないで、と母がすぐに続ける。弟は、巻く前に一拍置くと落ち着くと、まるで職人のような口ぶりで助言した。私はその通りにしてみる。フライパンの上で卵はふくらみ、角がやわらかく重なり、さっきよりずっと落ち着いた色に変わった。 焼き上がった二本目を切ると、断面はやさしい金色だった。ひと口食べた瞬間、思わず目を見開く。甘さは控えめなのに、あとから静かな深みが追いかけてくる。懐かしいのに知らない味、なのに確かに安心する味だった。祖母もひと口食べて、これなら私が覚えていたよりずっといいわねと笑う。母はうなずき、弟はもう一切れと皿を引き寄せた。 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。出てみると、近所に住む昔なじみが立っていて、余っただし巻きの材料があるなら少し分けてほしいと言う。聞けば、祖母が来ると知って慌てて様子を見に来たらしい。私は笑って皿を差し出した。けれど相手が一口食べた途端、なぜか目を丸くして、これ、昔うちで食べた味に似ていると言ったのだ。誰も知らないはずの、もうひとつの記憶に触れた気がして、私は言葉を失う。 祖母も母も弟も、ただ顔を見合わせている。どうやら卵焼きの味は、ひとつの家のものだと思い込んでいたのは私だけだったらしい。夕暮れの台所で、私は空になった皿を見下ろしながら、少しだけ笑った。懐かしさは過去に閉じこめられたものではなく、思いがけない場所で別の誰かとつながっている。そう思うと、次に焼く卵焼きが少し楽しみになった。

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