手紙を読み終えたあと、綾香はしばらく指先を動かせなかった。紙は薄いのに、そこに残された言葉は妙に重い。味は思い出を運ぶ。たった一文なのに、胸の奥に沈んでいたものを静かに持ち上げてくる。 「おばあさん……病気だったんですか」 少年の声は、かすかに震えていた。 綾香は顔を上げた。露店主が倉庫の入口に立ったまま、何も言わず見守っている。少年は手元の古いメモを握りしめ、言葉を探すみたいに唇を動かした。 「祖母から聞いたんです。白石さんが、あの卵焼きを持ってくると、うちの祖母がすごく元気になるって。落ち込んでいた日も、ひと口で顔つきが変わったって」 綾香の喉が詰まる。祖母は、あの頃もう無理をしていたのだろうか。隠していた体の痛みより、誰かに渡したい気持ちを優先して、ここまで来ていたのだろうか。 「元気を、渡してた……」 綾香がつぶやくと、少年はこくりと頷いた。 「はい。祖母は『あの人の卵焼きは、食べると背中が軽くなる』って言ってました。だから、毎年楽しみにしてたんです。うちに来るたび、少しだけ笑えるようになったって」 その言葉に、綾香は息を止めた。自分が今まで追いかけていたのは、祖母の味の記憶だけじゃない。誰かの明日を少しだけ軽くするために、あの人がどれほど静かに手を動かしていたのか、その重さだったのだ。 露店主が低く息を吐く。 「白石さんは、強い人だったよ。弱ってる顔は見せなかった。でも、配るときだけは、妙に嬉しそうでね」 綾香は祖母の手紙を胸元で握り直した。あの優しい字が、今さら違う形に見えてくる。励ますためではなく、支えるためでもなく、ただ元気を手渡すために書かれた線。 「……知らなかった」 「知らなくて当然だよ」 露店主が静かに言う。 「言わないで、やる人だったからな」 少年もまた、何かをこらえるように目を伏せた。しばらく三人のあいだに沈黙が落ちる。倉庫の外では、店じまいの音がまばらに響いている。風が通るたび、古い箱の蓋が小さく鳴った。 綾香はゆっくりと息を吐いた。 「おばあさんも、きっと救われたんですね」 「うん」 少年は目を上げた。 「だから、俺も……同じ匂いを嗅ぐたび、理由はわからないのに、助かった気がしてたんだと思います」 綾香は、その言葉にもう何も返せなかった。祖母の卵焼きが、目の前の少年の家族までつないでいた。その事実が、うまく胸に収まらない。けれど、不思議と苦しくはなかった。 ただ静かに、世界の端がひとつ広がった気がした。 綾香は手紙をもう一度見つめ、そっと折りたたむ。型の入った箱の隅で、古い金属が鈍く光っていた。少年もまた、メモを胸に抱えたまま黙っている。 二人は言葉を失ったまま、しばらくそこを動けなかった。やがて綾香は、まだ熱の残る指先で封筒の縁をなで、祖母が残した短い文の向こうに、見えない笑顔を思い浮かべた。
だし香る午後、卵焼きに帰る
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