翌朝、私はひとりで台所に立っていた。昨夜、近所の昔なじみが口にしたひと言が、まだ胸の奥で静かに揺れている。うちで食べた味に似ている。その一言で、卵焼きは祖母の記憶でも、母の工夫でもなく、もっと広い場所につながっている気がした。懐かしさは一枚の皿に閉じこめられるものではないのだと、ようやく分かった気がする。 フライパンを温めながら、私は砂糖の瓶を少しだけ傾けた。昨夜よりさらに控えめにする。だしは紙片どおり、塩はほんの少し。誰かの正解をなぞるのではなく、今日の自分が気持ちよく食べられる線を探したかった。卵を割ると、黄身が朝の光を受けてやわらかく揺れた。箸で混ぜる音が、静かな部屋に小さく重なる。 最初の一枚は、思ったよりうまくいった。火加減がちょうどよく、表面はなめらかにふくらむ。けれど巻き終えた瞬間、私はふと手を止めた。これで完成にしてしまうのが惜しい気がしたのだ。もう少しだけ薄く焼いたら、もう少しだけ甘さを減らしたら、どんな顔になるだろう。迷いはあったが、昨夜までのような焦りはない。味を決めることより、揺れながら確かめることのほうが大切なのかもしれない。 そこへ母が起きてきて、焼けた匂いに目を細めた。弟も眠そうな顔で台所に入り、ひと切れだけ先に食べさせろと手を伸ばす。私は笑って皿を差し出した。母は一口食べて、今日は少し大人っぽいねと言い、弟はいや、こっちのほうが朝に合うと真顔でうなずいた。意見はまた違ったが、誰も否定しない。その空気が、昨日までよりずっと心地いい。 そのとき、祖母から電話がかかってきた。来週来るはずの予定が、急に前倒しになると言う。しかもひとつ頼みがあるらしい。駅まで迎えに来る代わりに、駅前の小さな喫茶店で待っていてほしい、と。私は首をかしげたまま聞いていたが、祖母は笑いながら、そこで昔の友人にも会うからと続けた。 夕方、約束の喫茶店へ行くと、祖母は見知らぬ女性と並んで座っていた。女性は私を見るなり、卵焼きの匂いがするわねと言って笑った。祖母が紹介してくれたその人は、昔、祖母と同じ台所で卵焼きを焼いていた友人だった。二人は若いころ、互いの家の味を交換し合っていたという。だから、私の卵焼きに似ていると感じたのは間違いではなかったのだ。 祖母は紙袋から小さなレシピ帳を取り出し、私にそっと渡した。開くと、そこには何人もの手で書き足された卵焼きの記録が並んでいた。甘い日、だしの日、疲れた朝の日。そのどれもが、誰かの暮らしに寄り添うための味だった。私はページをめくりながら、初めて自分の卵焼きが、長い時間のあいだ誰かに受け渡されてきたものだと知った。 喫茶店を出るころには、空は薄く赤く染まっていた。祖母はまた今度、一緒に焼こうねと言い、友人はあなたの卵焼きなら毎朝でも食べたいと冗談めかして笑う。私はその場で小さくうなずいた。帰り道、胸の中には不思議な静けさが残っていた。懐かしさの正体は、ひとつの味ではなく、味を分け合ってきた人たちの時間だったのだ。そう思うと、次に焼く卵焼きが、少しだけ遠くまで届く気がした。
だし香る午後、卵焼きに帰る
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