最後の乗車予定日を二日後に控えた朝、悠真は始発前の薄明るい車庫で、古い写真の複写を何枚も並べていた。野末が持ってきた路線の古地図、老婦人が貸してくれた広場の写真、女将の包み紙に残る祭りの日付。それらをつなぎ合わせるうちに、老人の目指す場所はただの広場ではなく、路面電車の開通記念碑が立つ、小さな石畳の一角だとはっきりした。今は植え込みに半ば隠れ、通る人も気づかない場所だという。 そんなところ、まだ残ってたのか。 野末は地図を覗き込み、低く言った。区画整理で道が変わってから、みんな正面の商業施設のほうへ流れる。広場は裏側みたいになっちまった。 悠真は写真の中の笑う夫婦を見つめた。老人がたどり着きたかったのは、賑わいそのものではない。人の記憶の中心から外れてしまった場所に、もう一度だけ電車で着くこと。その小さな約束を、亡き妻に返したかったのだ。 その日から、準備は少しだけ速度を上げた。和菓子屋の女将は、記念碑のそばに置けるようにと小さな紙札を添えた団子を用意し始めた。八百屋の店主は、倉庫の奥から折り畳み椅子を引っ張り出した。高校時代によく乗っていたという会社員の男性は、休憩時間に広場の落ち葉を掃くと申し出た。誰も大きな声では語らないが、それぞれが自分の中の昔日に触れたようだった。 けれど現実は甘くなかった。所長に広場近くでの短い停車調整を相談した野末は、難しい顔で戻ってきた。定時運行を崩せる余裕はほとんどなく、会社として催しに関わることもできない。廃線が決まっている路線に、これ以上の特別扱いは認められないという。 わかっていたことだ。それでも悠真は悔しさを飲み込めなかった。何も覆せないまま、ただ最後の日付だけが近づいてくる。レールは昨日と同じように伸びているのに、その先に残された時間だけが急に細くなっていく気がした。 夕方、終点で老人が降りる際、悠真は意を決して尋ねた。 奥さまとの約束は、どんな約束だったんですか。 老人は料金箱の横で足を止めた。しばらく黙っていたが、やがて窓の外の空を見た。 娘が町を離れる日に、妻が言ったんです。いつか二人きりになったら、また最初からこの電車に乗って、広場の記念碑まで行こうって。若いころの私たちに会いに行くみたいでいいでしょう、と。 老人は小さく笑った。しかしその笑みはすぐに揺れた。 結局、妻は病気で乗れなかった。だから私が、約束の続きを連れていくんです。 胸の奥で何かが静かに締まった。悠真は深く頭を下げた。 その夜、商店街の集まりは急ごしらえの相談会になった。人数は多くない。できることも限られている。だが、誰かが写真を持ってきて、誰かが温かいお茶を用意し、誰かが昔の停留場名を口にするたび、場の空気は少しずつほぐれていった。廃線を止める力にはならなくても、忘れられた場所へ人の気持ちを戻すことはできるかもしれない。 会の終わり際、女将が言った。 残せるかどうかより、覚えてる人がちゃんと集まることのほうが大事な日もあるよ。 その言葉に、皆が静かに頷いた。 最後の乗車の前日、広場では数人が黙々と掃除をしていた。植え込みの陰から現れた石の記念碑には、かすれながらも開通を祝う文字が残っている。悠真は手のひらでそっと砂埃を払った。冷たい石の感触の向こうに、確かにこの町の時間が埋まっていた。 明日、ここへ電車で人が来る。 そう思った瞬間、見捨てられていたような場所が、長い眠りから目を開ける気配を見せた。
終点の先、町は記憶を連れて
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