車庫の休憩室は、日中の喧噪が嘘みたいに静かだった。蛍光灯の白い光の下で、湯気の消えた紙コップだけが並んでいる。新は扉の前で一度だけ息を整えてから、中へ入った。 「章吾さん」 声をかけると、奥の椅子に腰を下ろしていた老人が、ゆっくり顔を上げた。いつもの無表情に見えるのに、今夜は少しだけ疲れがにじんでいる。 「……お前か」 「直接、話したくて」 新はそう言って、迷いながらも椅子の向かいに立った。紙片のこと、古い停留場のこと、商店街で聞いた話。言いたいことは山ほどあったのに、口を開くと妙に素朴な言葉しか出てこない。 「章吾さんは、あの場所を全部確かめてるんですよね」 老人は視線を落としたまま、小さく笑った。 「確かめている、か。そう見えるなら、それでいい」 「違うんですか」 「違わん。だが、それだけでもない」 新は身を乗り出した。 「じゃあ、なんのためですか」 しばらく沈黙が落ちた。休憩室の壁時計だけが、乾いた音を立てている。やがて章吾は、掌のしわを見つめたまま言った。 「最後に一度だけ、町を一周したい」 その言葉は、思っていたよりずっと静かだった。願いというより、長く胸にしまっていた約束のように聞こえる。 「一度だけ、ですか」 「そうだ。今の町を、もういちど目に入れておきたい」 新は何か返そうとした。そのとき、休憩室の扉が内側から軽く叩かれた。 「新、いるか」 先輩の声だ。扉が開き、手にした封筒を見せる顔つきは珍しく険しい。 「……正式通告だ」 新の喉が、ひどく乾いた。 先輩は封筒を机に置き、短く言う。 「路線の維持は、もう無理だ。上から決まった」 紙の白さが、やけに眩しい。新は目を逸らせず、章吾の横顔を見た。老人は驚いた様子もなく、ただ封筒の端を一度だけ見た。 「そうか」 その一言に、逆に新の胸が痛んだ。 「そんな、簡単に……」 「簡単ではない」 章吾の声は低かった。 「だが、止められんものはある」 新は唇を噛んだ。廃線という言葉が、急に自分の足元まで迫ってくる。だが、同時に別の思いも湧き上がった。章吾の願いが、このまま消えてしまうのは嫌だ。町の音も、景色も、あの人の記憶も、終わりにするにはまだ早い。 「……何か、できるはずです」 先輩が新を見る。 「何をするつもりだ」 「町の記憶を集めます。話を聞いて、残ってるものを探して、みんなに見てもらう。電車があった時間を、消えない形にしたいんです」 自分でも勢いだけの言葉だと思った。けれど口にしてしまうと、胸の奥で小さな火が灯る。 章吾は新を見た。初めて会った日に向けられた、あの遠い目ではない。 「……手伝ってくれるのか」 「はい。明日から、お願いします」 そう答えた瞬間、休憩室の空気が少しだけ変わった気がした。先輩は封筒を回収しながら、苦笑ともため息ともつかない息を漏らす。 「勢いだけは一人前だな」 「すみません」 「謝るな。そういう顔をしてるなら、やるしかないだろ」 新はうなずいた。窓の外では、車庫の向こうに停められた電車の窓が、暗がりを受けて鈍く光っている。まだ動いている。まだ、走れるはずだ。 章吾はゆっくり立ち上がった。 「明日だな」 その一言に、新も立ち上がる。 「はい。明日、町の記憶を集めに行きます」 扉の向こうの夜気が、ひやりと頬を撫でた。新は封筒の白を一瞬だけ見てから、章吾と並んで車庫の灯りの外へ出た。
終点の先、町は記憶を連れて
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