市役所前の広場は、平日の午前だというのに妙にざわついていた。新は折りたたみ机の脚を押さえながら、横に並ぶ章吾へ小さくうなずく。 「これで、いいんですよね」 「いい。人が立ち止まれば、それで始まる」 章吾の声はいつも通り静かだったが、その目は広場の入口をじっと見ていた。新は掲げた紙の張り出しを確かめる。路面電車の思い出を集める小さな展示会。そう書かれた文字の下に、古い定期券の褪せた青や、切符入れの革の茶色が並んでいる。 最初は、誰も足を止めなかった。通り過ぎる人はチラリと見るだけで、少し肩をすくめて行ってしまう。新は内心で焦りながらも、笑顔だけは崩さないようにした。 「まあ、こんなもんか」 「最初はな」 章吾が答える。その直後、買い物帰りらしい女性が、机の前でふと立ち止まった。 「これ、うちの父のだわ」 そう言って、彼女は古い切符を指先でそっとなぞった。紙は黄ばんでいるのに、持ち主の名だけは今も生きているみたいだった。 次に来たのは学生服姿の若い男だった。彼は展示の写真を見て、照れたように笑う。 「この停留場、家の近くだったって祖母が言ってました」 その一言を合図にしたように、通りすがりの人たちが少しずつ立ち寄り始めた。思い出を話す声が、机の周りに輪を作る。子どもの頃に乗った話、買い物袋が揺れた話、雨の日に車内で靴が濡れた話。新はメモを取りながら、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。 「持ってきたよ」 年配の男性が差し出した写真には、学生時代の笑顔と、背後に小さく写る電車があった。別の女性は、長くしまっていた切符入れを机に置いた。 「捨てようと思ってたけど、今日なら見せてもいい気がしてね」 「ありがとうございます」 新が頭を下げると、章吾が短く会釈した。 だが、集まるのは懐かしさだけではなかった。 「でもさ、本当に残せるのかい」 ぽつりと漏れたその声で、空気が少しだけ冷えた。答えたのは誰でもない。広場の隅で立ち止まっていた別の男だった。 「思い出は集められても、電車そのものはもう……」 言葉が途切れる。諦めが、展示のあたたかさに薄い影を落とした。 新は唇を結んだ。言い返すことはできるのに、軽い約束を口にするのが怖かった。 その時、章吾が机の端に手を置く。 「残せるかどうかは、今ここで決まる」 低いが、はっきりした声だった。 「残したいと思う人がいるなら、まだ終わっていない」 広場にいた何人かが顔を上げる。新もまた、章吾を見た。老人の横顔は、まるで長い時間をかけてようやくひと息ついた人のようだった。 新は展示の前へ出る。 「車内で見たもの、聞いたこと、持ってるもの。どんな小さなことでもいいです。ここに置いていってください。電車が走ってた証拠を、みんなで残したいんです」 その言葉に、さっき諦めを漏らした男が黙ってポケットを探り、古びた整理券を一枚取り出した。別の誰かが、迷いながらも写真を差し出す。 広場の空気が、少しずつ変わっていく。 章吾はその流れを見届けると、ほんのわずかだけ口元を緩めた。 「……そうだ。それでいい」 新は机いっぱいに増えていく品々を見て、息をのんだ。展示会は、ただの回顧では終わらない。忘れかけた手が、今またつながり始めている。 だが同時に、諦めの声もまだ消えていない。 その揺らぎの中で、新は章吾の隣に立ち、集まってくる品々を一つずつ受け取った。広場のざわめきは、静かな熱を帯びたまま、なお続いていた。
終点の先、町は記憶を連れて
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