最終乗車の日の朝は、春先とも冬の名残ともつかない冷え方をしていた。悠真が運転台に座ると、ガラスの向こうの町はまだ眠そうに曇って見えた。それでも始発の停留場には、いつもより人影があった。買い物袋を提げた女将、襟を正した老婦人、見覚えのある会社員、高校生までいる。誰も大声では話さず、どこか照れたように車内へ乗り込んでくる。まるで昔の約束を、みなで黙って受け取りに来たようだった。 三つ目の停留場で、老人はいつものように現れた。灰色の帽子、襟の立った上着、背筋の伸びた姿。ただ今日は、その胸に小さな布包みを抱えていた。料金箱に小銭を落とす手が、ほんの少しだけ震えている。老人は中ほどの左側の席へ向かいかけ、そこで初めて車内の人の多さに気づいたように足を止めた。 女将が小さく会釈し、老婦人が微笑み、八百屋の店主がぶっきらぼうに手を挙げる。老人は目を見開いたまま、しばらく何も言えなかった。やがてゆっくり席に座り、窓の外ではなく、車内を一度だけ見回した。悠真はミラー越しにその表情を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。 発車します。 自分でも驚くほど声が澄んでいた。電車はいつもの線路を、いつもの速度で進む。けれど窓の外の景色は、今日は少しずつ昔の色を取り戻していくようだった。商店街の前では店先から手を振る人がいて、閉じたはずのシャッターの前にも誰かが立っている。停留場ごとにぽつりぽつりと客が増え、車内には懐かしい名前や昔話の断片が、低い波のように行き交った。 終点の一つ手前を過ぎたころ、老人が立ち上がり、運転台の後ろまで来た。 ありがとう、というのは、今日が終わってからにします。 その声に、悠真は前を向いたまま、はい、と答えた。言葉にすると何かがこぼれそうだった。 広場に近い停留場へ着くと、野末が先に降りて人の流れを整えた。乗客たちは急がず、譲り合うように石畳のほうへ向かっていく。植え込みの陰から現れた記念碑は、きのうまでの寂しさが嘘みたいに、朝の光を静かに返していた。折り畳み椅子が並び、みかん箱の上には写真が立てかけられ、女将の団子から湯気が立つ。賑やかとは言えない。けれど、確かに人の気配が満ちていた。 老人は布包みを開いた。中から出てきたのは、古い写真立てだった。若い夫婦と幼い娘が、記念碑の前で笑っている。あの日の一枚だ。老人はその写真を胸の高さで抱え、記念碑の前に立った。 遅くなったよ。 誰にともなく向けたその一言が、広場の空気をやわらかく震わせた。老婦人が目元を押さえ、八百屋の店主は空を見上げ、女将は黙って団子を供える。悠真は少し離れた場所から、その背中を見つめた。約束は、こんなふうに果たされるのかと思った。派手な音も、奇跡もいらない。ただ忘れられた場所へ、もう一度人が来る。それだけで、時間は静かに結び直されるのだと。 広場にはやがて、昔この路線を使っていた人たちの声が重なり始めた。写真を見て笑う人、停留場の名前を懐かしむ人、初めて来た若い乗客に昔の祭りを話して聞かせる人。悠真の視線の先で、老人もまた、写真立てを抱えたまま穏やかに笑っていた。その笑顔は一人きりのものではなかった。町そのものが、ようやく息を吹き返したみたいに見えた。
終点の先、町は記憶を連れて
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