エラベノベル堂

終点の先、町は記憶を連れて

全年齢

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8章 / 全10

保線作業場の床には、油のしみた古い工具箱と、外した部品が無造作に並んでいた。さっきまでの試乗のざわめきは、車庫の壁に吸われてもう遠い。新は警報装置の箱をのぞき込みながら、整備担当が差し出した配線図を見つめた。 「誤作動の原因、ここっぽいですね」 「だろうな。古い機械は、ほこり一つで気分を変える」 軽口のような声だったが、整備担当の目は真剣だった。新はうなずき、外した蓋の裏を見た。細い線の束が奥へ伸び、その先に、見覚えのある手つきで結ばれた印がある。 「この結び方……」 「わかるのか」 新が迷っていると、章吾が箱の脇にしゃがみ込み、ゆっくりと指先を伸ばした。あまりに自然な動きだったので、新は一瞬、作業の続きを頼むつもりなのだと思った。 だが、章吾は配線ではなく、箱の内側に貼られた古い札を見ていた。 「これは、まだ残してあったのか」 その呟きに、新は顔を上げた。 「知ってるんですか」 章吾は返事をしなかった。ただ、少しだけ目を細める。その沈黙が、逆に新の背筋を正した。 整備担当が工具を置く。 「章吾さん、昔のことを知ってる顔だな」 「昔、俺はこの路線の車掌だった」 新の呼吸が止まった。 「車掌……?」 「そうだ。切符を見て、扉を見て、子どもが降りる順番まで覚えていた」 声は淡々としているのに、言葉の端にだけ、長い年月の重みがにじむ。新は何も言えず、ただ章吾の横顔を見た。いつも窓の外を遠く見るような目が、今は工具箱の暗い隅をまっすぐ見ている。 「じゃあ、あの毎朝の乗車は」 章吾は、そこでようやく新を見た。 「町を忘れないためだ」 短い答えだった。けれど、新にはそれで十分だった。毎日同じ席に座り、同じ景色をなぞるように揺られていた老人の姿が、一気に別の意味を持ちはじめる。 「俺の中の順番が、だんだん抜けていく」 章吾はそう言った。 「名前も、場所も、昨日見たものも、時々ひどく薄くなる。だから乗る。降りるまで覚えていられるうちに、町を頭に焼きつけておきたい」 新は唇を噛んだ。胸の奥に、冷たいものと熱いものが同時に落ちる。 「そんなこと、もっと早く……」 「言えば、お前はどうした」 「……止まらなかったと思います」 章吾は小さくうなずいた。 「それでいい」 その一言が、妙に優しかった。 新は箱の蓋を持ち上げたまま、ぼんやりと作業場を見渡した。展示会に集まった切符、写真、整理券。試乗で揺れた笑顔。あれは町の思い出だけじゃない。章吾自身が、まだここにいる証でもあったのだ。 「路線を守るってことは」 新は絞り出すように言った。 「章吾さんの記憶を、守ることでもあるんですね」 章吾は少しだけ目を閉じた。 「そうだろうな。だから、お前がやってることは無駄じゃない」 新の胸が痛んだ。いつか消えるかもしれない記憶を、今この手で支えようとしている。路面電車の音を残すことは、町の外れに立つ一人の老人の足元を支えることでもある。 整備担当が、箱の中の部品を指で弾く。 「とにかく、こいつは手当てできる。まだ走らせるなら、今のうちだ」 新は頷き、工具を受け取った。 「はい。まだ、走れます」 章吾がその言葉を聞いて、ほんの少しだけ口元を緩めた。作業場の灯りの下で、老人の輪郭は驚くほど静かだった。それでも新には、次に来る夜を前にして、確かに何かがつながった気がした。

8章 / 全10

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