その夜、観測棟の照明は必要最低限まで落とされ、端末群の青白い光だけが室内に浮いていた。トウマは管理室で曖昧に丸められた報告書と、自分で保存した生データを並べ、差分を一つずつ洗い出していた。削られていたのは言い回しだけではない。補助ポンプの応答遅れの最大値、圧力膜外縁の静電偏差、熱交換塔の負荷揺動。どれも基準内に見えるよう、平均化された形跡がある。数字の角だけが、丁寧に削られていた。 ユナが整備区画から通信を入れてきたのは、火星時で二十三時を回ったころだった。 「今、第三風路の点検終わった。現場の体感だけど、補正が細かすぎる。機械が落ち着けなくなってる」 「ログでも同じだ。外乱が来るたびに抑え込みすぎて、次の揺れを自分で育ててる」 「人が不安なときに早口になるみたいなものか」 その比喩に、トウマは少しだけ息をついた。まさにそんな感じだった。基地の人工気候制御は、火星の薄い空気に無理やり秩序を教え込むための仕組みだ。けれど相手が静かに揺れ返してきたとき、システムは沈黙できない。わずかな乱れにも反応し、先回りし、補い、結果として自分の影に足を取られる。 トウマは過去ログから異常直前の三十六時間を六件分抜き出し、現在の観測と重ねた。波形は恐ろしいほどよく似ていた。砂塵帯の蛇行幅が一定周期で増し、その十二時間後に制御風路の補正回数が跳ね上がる。さらに数時間遅れて、局所的な圧力の偏りが出る。まるで見えない楽譜があって、基地全体が同じ不吉な小節を繰り返しているようだった。 そこへ、内部メッセージが届いた。送信者は匿名化されていたが、添付ファイルの形式は古い設計部門のものだった。開くと、人工気候制御システム初期仕様書の抜粋が現れた。外部粉塵流動との共鳴リスクについて、試験段階で既に指摘がある。条件が重なれば補正系が自己増幅を起こし、広域制御に伝播する可能性あり。だがその一文には、赤い修正線が引かれ、量産版では別表ごと削除されていた。 トウマの喉が乾いた。予兆ではない。これは想定外ですらなかったのだ。 ユナにファイルを転送すると、数秒の沈黙のあと、低い声が返ってきた。 「知ってて残したのね」 「改善コストか、工程を優先したんだろう」 窓の外で、遠い地平線の赤い帯がゆっくりとうねった。今日は風速自体は高くない。それなのに砂は、見えない柵に沿って並び替えられる群れみたいに、基地外周を巡っている。癖はもう、微細とは呼べなかった。 トウマは立ち上がり、観測棟の共用チャンネルを開いた。保守、医療、農業区画、電力管理。直接警報を出す権限はない。だが現場同士で共有できる数値はある。彼はまず、公式文書から消された値を添えて、監視強化の非公式メモを送った。遠慮の皮を一枚剥いだ文章だった。 すぐに返信が返り始める。農業区画では湿度制御弁が短周期で開閉を繰り返している。医療棟では外気フィルタの目詰まりが通常より早い。電力管理では熱交換塔の消費が波打っている。ばらばらだった違和感が、一本の暗い川になって集まり始めた。 トウマは画面を見つめたまま、静かに確信していた。上層が黙らせようとしているのは、可能性ではない。もう始まっている現実だ。しかも進行は、彼が朝に見たときより速い。基地はまだ平静を装っている。だが表面の静けさの下では、見えない歯車が少しずつ噛み合いを失い、次の一段を外そうとしていた。
火星の癖、嵐の証言
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