エラベノベル堂

火星の癖、嵐の証言

全年齢

小説ID: cmnenaun5004d01n38keanl49

4章 / 全10

翌朝、観測棟に差し込む薄い光はいつもと同じ色をしていたのに、トウマには基地全体が一段低い音でうなっているように感じられた。夜のあいだに集まった各区画の報告はさらに増えていた。農業区画の湿度制御弁は設定値へ戻るまでの時間が長くなり、電力管理では熱交換塔の負荷変動が小刻みに続いている。単独なら些細な癖で済む数字ばかりだ。だが並べると、同じ譜面を別の楽器がなぞっているように整いすぎていた。 トウマは最新の観測データを六件の事故前ログと重ね、予測線を引いた。今の進行速度なら、二十八時間以内に補正系の自己増幅が臨界へ届く。そこから先は区画ごとの不具合では済まない。制御の揺れが基地外縁を一周し、また内側へ返ってくる。人工の空が、自分の吐いた息でむせ返るような状態になる。 ユナが整備服の襟を片手で直しながら入ってきた。 「第三風路、予備系まで細かく震えてる。まだ壊れてはいないけど、みんな落ち着きがない」 「予測出た。あと一日ちょっと」 その数字を口にした瞬間、部屋の空気が硬くなった。ユナは画面を見て、短く息を吐く。 「上にもう一回持っていくしかないか」 「今度は設計資料も付ける」 運営管理室での再会議は、前回よりも人数が増えていた。真壁に加え、技術企画と広報まで同席している。トウマが相関図と予測線、そして初期仕様書の削除箇所を示すと、室内は一瞬だけ静まった。誰も驚いていない沈黙だった。 真壁は指先で資料の端をそろえ、静かな声で言った。 「設計上の懸念が議論されたのは事実だ。しかし、現行仕様は許容範囲で運用されている」 「許容範囲なら、どうして削除したんです」 「試験段階の仮定をそのまま残せば、投資判断に無用なノイズが入る」 無用。その言葉は昨日より重かった。トウマは抑えていた語気を一段上げた。 「ノイズじゃない。現場ではもう兆候が連結しています。今すぐ負荷を落として、広域補正を段階停止すべきです」 広報担当が先に口を開いた。 「段階停止は査察直前の印象が悪い。居住者への説明も必要になります」 「印象の話をしてる場合じゃないでしょう」 真壁はようやく笑みを消した。 「相良君、君は優秀だ。だが現場の不安をそのまま運営判断に持ち込まれては困る。データは精査する。公式な通達が出るまで、区画間の非承認共有は控えたまえ」 それは命令であると同時に、口を閉ざせという宣告だった。 会議室を出たとき、ユナは壁にもたれたまま待っていた。トウマの顔を見ただけで結果を悟ったらしい。 「止めないのね」 「止める気がない。壊れ方を小さく見せたいだけだ」 二人で観測棟へ戻る通路の窓を見ると、基地外周の砂塵帯は昨日より太く、ゆるやかな輪を描いていた。自然の風景には見えなかった。巨大な指が、基地を囲む見えない縁を何度もなぞっているようだった。 トウマは端末の前に座り、管理権限の外で保存していた生データの束を開いた。曖昧に削られた数字、設計段階で消された一文、各区画から届いた現場の声。それらはもう、ただの違和感ではない。誰かが蓋を押さえている鍋の内側で、確実に熱が回り始めている。 彼は共用チャンネルの送信先一覧を見つめた。まだ正式な警報は出せない。だが、待てば待つほど選べる手は減る。赤い平原の向こうで、砂の輪がまた一つ脈を打った。その律動が、残された時間を静かに刻んでいた。

4章 / 全10

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