制御区画前室の空気は、夜勤明けの眠気を押しつぶすほど冷たかった。朝比奈新は手袋越しに認証端末へ触れ、私的アクセス権の最終確認を終える。扉の向こうで低く唸る主装置の気配が、胸の奥にまで伝わってきた。 「……入るしかない、か」 独り言に応える者はいない。だが今夜は、その孤独のほうがむしろ都合がよかった。止める声がないぶん、迷いも少ない。 扉が開く。内部は、光よりも稼働音のほうが支配していた。新は制御卓の脇に膝をつき、内部ログを呼び出す。画面に流れ出した記録は、想像以上に生々しかった。 「冷却系の過熱だけじゃない……」 短く息を呑む。数値の波は、どこかで無理に整えられた跡を残しながら、何度も同じ場所で歪んでいた。補正値は一見すると整っている。けれど、その整い方が逆に不自然だった。 「補正アルゴリズム……崩れてる」 長期運用で積み重なった微修正が、互いを打ち消し合うのではなく、少しずつずれていた。冷却の不足が火種なら、補正の劣化は火種を見えなくする煙だ。新はログをスクロールする指を止め、思わず画面に顔を近づけた。 「これじゃ、砂嵐の癖も説明がつく」 暴走の予兆だと思っていた揺れは、ただ壊れゆく合図ではなかった。人工の気候が、自分の歪みを埋めるために必死に形を変えていたのだ。押さえつければ押さえつけるほど、別の場所で均衡を探してしまう。まるで、壊れた骨を無理にまっすぐにしようとするたび、体が別の角度で支えを作るみたいに。 「……防衛反応、か」 そう呟いた瞬間、背後の気配が重くなった。 「その結論にたどり着いたか」 振り返ると、政人が立っていた。新は反射的に身構える。 「何のつもりだ」 「君が掘り返している件だ。ここで止めろ」 政人の声は静かだったが、その静けさには圧があった。 「この記録を公表すれば、計画は止まる。契約も飛ぶ。投資も全て失われる。基地は守れない」 「守れないのは、最初から無理を通してたからだろ」 新は端末を抱え直す。 「危険だと分かってて続けたんじゃないのか」 「綺麗事で基地は回らない」 「綺麗事じゃない。現実だ」 政人の視線が、画面に走るログへ落ちる。 「そのデータを破棄しろ。今ならまだ、君の責任にはしない」 新は笑えなかった。だが、恐怖もなかった。ログの中で揺れていたのは砂だけじゃない。基地そのものが、かろうじて均衡を保ちながら鳴いていた。 「破棄なんてしない」 そう言い切った新の耳に、主装置の低い唸りがひときわ深く響いた。人工の空は、まだ答えを探している。その気配だけが、暗い前室の中で確かに生きていた。
火星の癖、嵐の証言
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