エラベノベル堂

火星の癖、嵐の証言

全年齢

小説ID: cmnenaun5004d01n38keanl49

7章 / 全10

観測棟の床を伝ってくる振動は、もはや気のせいではなかった。警報灯の赤が壁を舐めるたび、端末群の表示がわずかに遅れて揺れる。トウマは公開済みの対策手順を全区画の共通画面へ固定し、更新され続ける数値へ目を走らせた。広域補正の停止命令は通り始めている。だが止まり際がいちばん危うい。暴れた馬が急に手綱を放されれば、最後に大きく跳ねるのと同じだった。 「第三風路、局所分散へ移行」 ユナの声が飛ぶ。 「農業区画、湿度壁を手動保持」 「医療棟、外気流入を最小化」 短い報告が積み上がるごとに、基地全体が一つの生き物みたいに身を固めていく。 その最中、トウマの画面に一つだけ異様な線が現れた。外周南東域、圧力膜縁の静電偏差が下がらない。むしろ広域補正を切ったあとも、そこだけが砂塵帯の脈動とぴたり重なっている。嫌な予感より先に、設計資料の欠落した頁が脳裏に浮かんだ。共鳴の起点は外ではなく、内側に残る補助制御。表向き停止しても、査察向けの自動演出モードが生きていれば、居住区周辺だけ快適値を維持しようとして秘密裏に風を打ち続ける。 「まだ何か動いてる」 トウマはログを引き剥がすように掘った。通常監視から隠された副系統。名目は景観安定化。地球向け配信用の気象補正レイヤ。緑化実験区の上空を穏やかに見せるためだけの、薄い化粧みたいな制御だった。 ユナが息をのむ。 「こんな時まで見栄を張ってるの」 「これが脈をつないでる。切らないと終わらない」 だがその副系統は運営管理室からしか止められない。トウマが通信を開くと、真壁は数秒黙ったあと、ひどく疲れた声で答えた。 「停止すれば、査察用の全記録に痕跡が残る」 「止めなければ、基地そのものに痕跡が残る」 沈黙の向こうで誰かが早口に何かを告げ、真壁の呼吸が乱れた。企業の面子と現実の破片が、ようやく同じ机の上に載ったのだろう。 やがて副系統の停止信号が走った。 次の瞬間、外部カメラの映像で砂の輪が一度だけ大きく膨らみ、ほどけた。縄のように基地を締めていた脈動が、音のないため息みたいに崩れていく。各区画の数値が遅れて追いつき、熱交換塔の揺れが落ち、圧力膜縁の偏差がゆっくり平らになる。警報音はまだ鳴っているのに、基地のうなりだけが確かに一段低くなった。 トウマは背もたれに触れるのを忘れたまま、赤い平原を見つめた。砂嵐の癖は消えていない。ただ、その正体がようやく裸になっただけだ。火星が警告していたのではない。飾られた成功の顔を守ろうとして、基地自身が空を歪めていた。 通信の向こうで、誰かが笑うように泣くような息を漏らした。ユナは端末に手をついたまま、小さく言う。 「これで隠せないね」 トウマはうなずいた。危機はまだ終わっていない。だが真実はもう、誰かの引き出しに戻せる形をしていなかった。

7章 / 全10

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