閉館した寄席は、昼間の喧騒が嘘みたいに眠っていた。客席の赤い布は闇に沈み、舞台の端だけが、薄い明かりにかろうじて輪郭を残している。信一はその中央で扇子を開き、閉じ、また開いた。さっきから同じ所作を繰り返しているのに、体のどこかがまだぎこちない。 「今の、少し早いです」 客席側の暗がりから由美の声が飛ぶ。見えないのに、視線が刺さる気配がした。 信一は苦笑して扇子を肩に当てた。 「早いか。舞台に立つと、つい急ぎたくなる」 「急ぐと、見せたいものまで一緒に飛びます」 「厳しいな」 「大事なところなので」 信一は頷き、もう一度同じ場面をやり直した。今度は言葉を足さない。扇子を少しだけ止め、目線を客席に預け、相手がどう受け取るかを待つ。たったそれだけで、空っぽだった間に、何かがふくらむ気がした。 「……お、来たか」 小さく漏らすと、由美が暗闇で息を呑んだのが分かった。 「今のです」 「今の?」 「待たせたあとに、想像が動きました」 信一は舞台の床を見た。板の木目が、古びた川筋みたいに伸びている。 「声で押すより、沈黙で寄せた方が届くことがあるんだな」 「ええ。全部を説明しないから、観客が自分で埋められるんです」 由美は客席の位置から、わずかに身を乗り出した。 「今の扇子の閉じ方、もう一拍だけ遅くしてください。そこが息になります」 「息、か」 信一は扇子を持ち直す。呼吸を整え、開く。由美の手は見えない。けれどその不在が、不思議と舞台の余白を広げていた。 「見せすぎると、客の頭が動かないんですね」 「そうです。少しだけ残す。すると、目の前で勝手に育ちます」 信一は思わず吹き出した。 「雑草みたいに言うなよ」 暗闇の向こうで、由美も同じように笑った気配がした。 「でも、ちゃんと芽が出ます」 その言い方が可笑しくて、信一はもう一度笑った。胸の奥がふっと軽くなる。声を失ってから、笑いがこんなふうに身体の内側からこぼれるのは初めてだった。 由美も、客席側の暗がりで同じ笑みを返した。見えないはずなのに、彼女の表情がこちらにも伝わる。信一は扇子を閉じ、しばらくその顔を探すように舞台を見つめた。 「由美」 名を呼ぶと、彼女はすぐに目を向けた。 「はい」 「俺、まだちゃんとやれるかもしれない」 由美は少しだけ首を傾け、それから、いつもの穏やかな顔でうなずいた。 「もう、ひとりじゃないですよ」 その一言が、舞台の空気を静かに変えた。信一は扇子を握り直し、深く息を吸う。沈黙の中に、確かな相棒の気配があった。次に開く扇子の先へ、二人の笑いがちゃんと続いていく気がした。
見えない声、灯る高座
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