映像が流れ始めると、客席のざわめきはすぐに一段低くなった。小劇場の初日の空気は、まだ昼の熱を少し残しているのに、スクリーンに映る扇子の一振りで妙に引き締まる。紹介文には、目で聴く落語とある。信一は袖でその言葉を聞き、苦笑しかけてやめた。 「大げさに言いすぎだろ」 由美が隣で小さく首を振る。 「でも、来てくれたなら勝ちです」 舞台に出れば、答えは客の顔に出る。信一は扇子を握り直し、最初の所作に入った。声はない。けれど由美の手話、視線、間がひとつずつ重なり、客席の前列から次第に反応が広がっていく。子どもが肩を揺らし、年配の客が目を細め、途中で何度も笑いが漏れた。信一はそのたび、胸の奥の緊張がほどけるのを感じた。 最後の一節を閉じると、拍手が起きた。大きな音ではない。それでも、初日にふさわしい熱があった。信一は深く頭を下げ、由美と視線を交わす。やれた。そう思った瞬間だった。 終演後、楽屋へ戻る通路の先で、見覚えのある気配が立っていた。白い髪をきっちり撫でつけた老いた男。由美が一歩だけ身を引く。 「……一門の、」 信一の声はそこで止まった。男は挨拶もせず、扇子の扱いを見ていた目で信一をまっすぐ射抜く。 「聞いたぞ。映像に頼って客を集めたそうだな」 「それは、紹介で」 「言い訳をするな」 短い叱責が、通路の壁に硬く跳ね返った。 「落語の型を壊した。声を捨てたなら、なおさら型だけは守れ。見せ方を変えれば、新しい芸になると思ったか」 信一は何も言えなかった。満席の熱はまだ身体に残っているのに、その場だけ急に冬みたいに冷える。扇子の骨が掌に食い込む。由美が何か言おうとした気配がしたが、信一は先に視線を落とした。 「……」 反論は浮かぶ。だが言葉にした瞬間、今夜の笑いまで汚れてしまう気がした。幹部はそれを沈黙と受け取ったのか、鼻で息を吐く。 「客受けだけで続くと思うな。舞台の外で持て囃されても、寄席の筋は別だ」 その一言で、信一の中の何かが鈍く軋んだ。由美がそっと袖口を押さえるように立つ。彼女の指先は落ち着いているのに、今はその静けさがかえって痛い。 男はそれ以上は言わず、踵を返した。去っていく背中だけが、やけに広い。 通路に残ったのは、褒められた直後とは思えないほど深い沈黙だった。信一は扇子を閉じる。さっきまで舞台上で育っていた笑いが、足元でしおれていくようだった。 「信一」 由美が呼ぶ。 彼は返事をしないまま、壁に手をついた。胸の奥が熱い。だがそれは達成の熱ではなく、侮辱の熱だった。客席で生まれた確かな手応えと、通路で浴びた冷たい言葉が、同じ身体の中でぶつかり合う。 「俺、間違ってたのか」 ようやく漏れた声は、掠れていた。 由美はすぐには答えない。ただ、信一の顔を見上げ、ゆっくり首を振った。けれどその頷きでも否定でもない仕草が、今は余計に苦しい。 舞台の奥では、まだ客が帰り支度をしている気配がする。笑い残りのざわめきと、古い一門の規矩。そのどちらにも挟まれて、信一はしばらく動けなかった。扇子だけが、手の中で冷えていった。
見えない声、灯る高座
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