翌朝、稽古場に入ると空気が妙に軽かった。昨夜まで積み重ねた不安が、どこかへ持ち去られたような静けさだった。机の上には一通の手紙が置かれている。差出人は、地方公演で私たちの舞台を見たという老人たちの連名だった。あの夜は、耳の遠い者も、子どもも、車椅子の客も、同じ場で笑えた。あれをもう一度見たい。そう結ばれた文字を、私は何度もなぞった。彼女もその隣で、目を伏せたまま唇を震わせていた。 だが、その手紙の裏には、さらに不穏な話が書かれていた。大舞台の主催側が、出演を白紙に戻すかもしれないという。理由は単純だった。伝統の看板に傷がつくからだ。私の胸に、冷たい水を浴びせられたような感覚が走る。けれど彼女は、すぐに顔を上げた。戻るなら、戻る前に見せるしかない。観客だけではなく、決める側に。 その日の午後、私たちは師匠に呼び出された。古い稽古場の奥、磨り減った座布団の前で、師匠は無言のまま私たちを見た。やがて、地方の評判、手紙のこと、協会の渋い顔、全部知っているとだけ言った。そして私の目を見て、こんな芸は珍しいだけでは消える。珍しいまま終わるなら、好きにすればいい。だが、客が笑った事実まで否定するなら、そいつは芸を見ていない、と低く吐き捨てた。 私は息を飲んだ。師匠が味方になるとは思っていなかった。彼はさらに続けた。明日の説明会で、芸の核を示せ。寄席の型を壊したいのではない、落語が持つ想像の力を広げたいのだと証明しろ。声があるかないかではない。客の頭の中で、生きた人間が立ち上がるかどうかだ。 彼女が小さくうなずく。私は扇子を握り直した。逃げ道はなくなった。だが、不思議と怖くはなかった。むしろ、ここで退けば自分で自分を裏切るだけだと、はっきり分かっていた。翌日の説明会で、私は初めて高座ではなく、会議の机の前に立つことになる。笑いを取る場ではない。だが、芸の輪郭を突きつけるには、これ以上ない舞台だった。 夜遅くまで、私たちはひとつの噺を磨き直した。彼女は字幕を削り、照明の合図を簡潔にした。私は動きを増やす代わりに、止める場所を増やした。余白が怖いと思っていた昔とは違う。沈黙は、客に渡すための広い座敷だ。そう思えるようになったとき、彼女がふいに笑った。明日は、きっと誰かが驚く。たぶん、ひとりじゃない。 その言葉どおり、説明会の席で待っていたのは批判だけではなかった。大舞台の責任者の隣に、地方公演で見たという親子連れが座っていたのだ。私はその顔を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。客は、すでにこちら側にいた。あとは、閉じかけた扉をどう開けるかだけだった。
見えない声、灯る高座
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