エラベノベル堂

見えない声、灯る高座

全年齢

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8章 / 全10

大舞台の稽古は、会館の広さに反して息苦しかった。客席の段差、舞台の奥行き、照明の反射までが、これまでの小さな試演とは違う顔をしている。私は袖で扇子を握りしめ、彼女は字幕の最終確認を何度も繰り返した。ところが、開演前になって主催側の担当者が顔色を変えた。楽屋口に、協会の一部と評論家たちが押しかけ、この演目は落語の名を借りた別物だと抗議しているらしい。中止にするべきだという声まで上がった。 胸の奥が冷えた。やっとここまで来たのに、最後の扉がまた閉まるのか。私は反射的に師匠を見た。師匠は黙っていたが、その目はもう迷っていなかった。彼は担当者に向かって、これを見ずに語るのは卑怯だと言い切った。そして私たちに向き直ると、短くうなずいた。やれ。止められるなら、舞台の上で止めてみろ。 彼女はその言葉を聞くと、深く息を吸った。手話で、いま必要なのは説明じゃない、客の目だと示す。私は頷き、袖から一歩出た。ざわめく客席の先頭には、地方公演で笑ってくれた親子連れの姿があった。その存在だけで、私は背筋を伸ばせた。 幕が上がる。最初の一瞬、客席はまだ疑いの色を残していた。けれど彼女が字幕を最小限に抑え、私が扇子を置いて素手で間を切ると、空気が変わった。笑わせる場面では、肩の動きひとつで客が先回りして笑い、しんとする場面では、照明がわずかに落ちるだけで視線が集まる。私は声を持たないぶん、表情と呼吸で人物の温度を立ち上げた。 やがて、最後の噺筋に差しかかったとき、彼女が思いがけない動きをした。字幕を消し、手話を止め、ただ客席のひとりひとりを見渡したのだ。そこには説明も補助もない。ただ、誰も外に置かないという意思だけがあった。私はその空白を受け取り、扇子で一度、舞台を打った。乾いた音が響く。次の瞬間、笑いが波のように広がった。遅れていた客も、疑っていた客も、同じ顔で息を漏らしていた。 終演後、拍手はさざ波のように長く続いた。中止を求めていた担当者は、言葉を失ったまま座り込んでいる。評論家のひとりは、舞台を見直すように眼鏡を押し上げた。だが、私の目に最初に入ったのは師匠だった。彼は客席最後列からゆっくり立ち上がり、こちらを見て、深く頭を下げた。声で語るものだけが落語ではない。客の頭の中に人を立たせるものがあるなら、それはもう立派な落語だ。 彼女が私の袖をつまんだ。振り向くと、彼女は笑っていた。だがその笑みは、成功を喜ぶものではなかった。ようやく迷いを手放した人の顔だった。私はそこで初めて気づいた。大舞台を守ったのは、私たちの芸ではない。見えないまま置き去りにされてきた誰かの居場所だったのだ。 帰り際、師匠は私に新しい名をひとつだけ与えた。看板は変わらなくていい。だが、お前はもう前座ではない。私はその言葉を胸にしまい、彼女と並んで夜の通用口へ出た。街の風は冷たかったが、喉の奥には不思議な熱が残っていた。声を失ったあの日から続いていた暗がりの先に、予想もしなかった光が待っていた。

8章 / 全10

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