夕方の光が、福祉センターの窓から斜めに差し込んでいた。白い壁にやわらかな影が落ち、並べられた椅子の列はいつもより少しだけ近く感じる。信一は舞台代わりの小さなスペースに立ち、扇子を指先で確かめた。さっきまでの稽古場とは違う。客席には、由美が事前に声をかけてくれた人たちが集まっていた。手元を見つめる聞こえない観客。ゆっくり腰を下ろした老人。膝の上で靴をぶらぶらさせる幼い子どもたち。 「いけます」 由美が客席の脇から手を挙げる。信一はうなずいた。 「じゃあ、少しだけ。見える人も、見えにくい人も、置いていかないように」 その言い方に、前列の誰かがふっと笑う。信一は扇子を開き、最初の所作に入った。扇子を閉じるだけで男の顔が変わる。目線をずらすだけで、気まずさも、ずるさも、ちゃんと立ち上がる。子どもたちはすぐに身を乗り出したが、高齢の客はまだ様子を見ている。聞こえない客は、由美の手話を追いながら、表情の揺れに静かに目を細めていた。 ひとつ目の笑いは、子どもからだった。遅れて、その隣の老人の肩が揺れる。信一は少し間を置き、わざと扇子を止めた。待たせると、視線が集まる。集まった視線の中で、由美が小さく頷いた。 「そこ、もう少しだけ長く」 指先が客席を示す。信一は、そのまま間を伸ばした。すると、さっきまで反応が薄かった後方の年配客が、口元を押さえて笑った。聞こえない観客のひとりも、由美の手の動きと信一の顔を見比べてから、肩を震わせる。 反応は一様ではなかった。すぐに笑う人、遅れて笑う人、表情だけが先にほどける人。それでも、笑いどころだけは確かに届いていた。信一はその流れの違いに戸惑いながらも、由美の細かな合図に合わせて動きをわずかに変える。扇子を見せすぎない。説明を足しすぎない。客席のあちこちで、それぞれの速度で笑いが生まれていく。 「今の、もう一拍早いです」 由美の手が静かに止まり、すぐ次の合図へつながる。 「そこは、子どもが先に気づいてます。だから、少し待って」 信一は息を飲んだ。見ている先が違っても、拾う場所を少しずらせば、皆が同じ場に座れる。そう気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。 最後の場面を閉じると、会場には拍手とは別の、じんわりしたざわめきが残った。誰かが 「見やすかった」 と言い、別の誰かが 「分かりやすいのに、うるさくない」 と続ける。信一は扇子を閉じたまま、客席を見渡した。 由美がそっと近づき、低い声で言う。 「今のままでも十分です。でも、もう少しだけ整えられます」 「どこを」 「笑いが遅れる人に、もう一つ足場を作れるかもしれません」 信一は、扇子を見つめた。確かに届いた。けれどまだ、届ききっていない場所がある。彼はゆっくりとうなずく。 「じゃあ、次はそこを見ます」 由美は小さく笑った。その笑みを見たとき、信一は、再演がただの試し上演では終わらないことを、はっきり感じていた。
見えない声、灯る高座
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