柚羽は資料を抱えたまま、廊下の角を曲がった。雨はまだ止む気配がないのに、館内の空気は妙に乾いている。けれど足元に目を落とした瞬間、その感覚が間違いだと分かった。 「……濡れてる」 床板の上に、薄い水の筋が続いていた。誰かが靴裏に雨をまとわせたまま歩いたらしい。廊下の明るさの中で、それはまるで館内にだけ残された別の天候みたいだった。 その先に立っていた慎一は、腕を組んだまま眉を寄せた。 「またその話か。柚羽くん、展示替えの確認をしすぎている。記録の見間違いだろう」 「見間違いじゃありません。絵の顔が変わるんです。それに、空欄だらけの古い資料も……」 「古い資料は古い資料だ。今は今だよ」 慎一の声は穏やかだったが、切り捨てる早さがあった。柚羽は唇を噛んだ。相手にされていない、と言うより、最初から聞く気がない。そんな硬さがあった。 「じゃあ、この足跡はどう説明します」 彼女は床を指差した。濡れた跡はまっすぐ収蔵庫へは向かわず、途中で折れて、修復室の扉の前へ細く伸びている。足跡の幅は一人分。しかも、ただ歩いただけではない。何かを隠すように、急いで戻った形にも見えた。 慎一の視線が、一瞬だけ床に落ちた。すぐに戻る。 「清掃の人間が通っただけじゃないのか」 「この時間に?」 「……雨だ。館内も滑りやすい。偶然いくらでもある」 柚羽は首を振った。偶然で片づけるには、あまりに都合が良すぎる。絵の中の人物が入れ替わる怪異だけなら、まだ言い訳のしようがある。だが、この足跡は現実だ。誰かが確かに歩いた痕跡。しかも、その行き先が修復室なら、作品の前で起きている異変とつながっている。 「怪異だけじゃない……」 柚羽は小さく呟いた。慎一は反応しない。 「人的な手も入ってる。たぶん、同時に」 廊下の窓に、雨粒が細かく走った。外の山は白く滲み、館内の影だけが濃い。柚羽は濡れた足跡の先を見据えたまま、ゆっくり息を吸う。 絵が勝手に変わるのではなく、誰かが絵の変化を利用している。記録が書き換えられたのも、展示の並びが似ているのも、全部が一本の線でつながる。 「慎一さん。私は、修復室を見ます」 「勝手にしなさい」 投げやりな返事だった。けれど柚羽には、それ以上の拒絶には聞こえなかった。 彼女は足跡の上に自分の靴を重ねないよう、慎重に脇を通り抜けた。扉の向こうにあるものが何であれ、もう目をそらせない。濡れた筋は、まるで廊下の奥へ向かう指先のように、静かに彼女を誘っていた。
雨籠りの画布、失踪は暁へ
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