柚羽は修復室の前で、しばらく息を殺していた。廊下の照明は半分以上落ち、非常灯の緑が壁の端を薄く染めているだけだ。さっきまで聞こえていた雨音も、館の厚い壁に吸われて遠い。代わりに、扉の向こうから小さな音がした。 紙が、擦れるような音。 「……いるの?」 返事はない。けれど、今度ははっきり聞こえた。何かがめくれ、こすれ、また止まる。柚羽は濡れた指先を握り込む。胸の奥が冷えていたが、目を逸らしたら終わりだと分かっていた。 「脅かしてる場合じゃない。あれは作品のほうだ、たぶん……」 自分に言い聞かせる声が震える。展示室で見た、あの顔の変化。空いた台座。修復室へ続いた足跡。全部がひとつの方向を向いている。 柚羽は慎重に取っ手へ手をかけた。金属は冷たかったが、思ったより重くない。 「開けるよ」 小さく言って、扉を押す。 中は暗かった。作業灯は消え、棚と机が影の塊みたいに並んでいる。空気には古い糊と乾いた紙の匂いが混じっていた。その中で、紙擦れの音だけが、どこか一点から続いている。 「どこ……」 柚羽は懐中電灯を掲げた。細い光が棚の脚元、布をかぶせた台、壁際の作業台をなぞる。けれど人影はない。代わりに、壁に立てかけられた大きな額縁の裏が、ほんの少しだけ浮いているのが見えた。 「……裏?」 近づく。光を斜めに当てると、額縁と壁の間に、見えないはずのわずかな隙間があった。そこから、乾いた紙の端がのぞいている。 「隠してある」 声にした途端、鳥肌が立った。絵の裏に何かがある。そう思った瞬間から、紙擦れの音は急に近くなる。まるで、そこにしまわれた何かが、外へ出たがっているみたいに。 柚羽は額縁の端へ手を伸ばした。指先に触れたのは木枠ではなく、裏打ちの紙のざらつきだった。きっちり貼られているはずなのに、一部だけが剥がれかけている。 「ここだ……」 慎一に知らせるべきか、一瞬迷う。だが、あの顔をしたまま取り合わないだろう。なら、自分で確かめるしかない。 懐中電灯を口にくわえ、柚羽はそっと紙の端をつまんだ。力を入れすぎれば破れる。けれど、今はそれでもいい気がした。隠されているものの手応えが、指先に伝わってくる。 「お願い、出てきて……」 紙の奥で、また小さな擦過音がした。柚羽は息を止め、剥がれかけた隙間を見つめた。そこにあるのは、ただの裏紙ではない。何かが、この絵の背中に貼り付けられている。 彼女は唇を噛み、そっと、さらに端を持ち上げた。
雨籠りの画布、失踪は暁へ
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