エラベノベル堂

雨籠りの画布、失踪は暁へ

全年齢

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6章 / 全10

柚羽は息を潜めたまま、指先に力を込めた。剥がれかけた裏打ち紙は、思ったよりも脆く、少し持ち上げただけで乾いた音を立てる。その音に、自分の心臓が合わせて跳ねた。 「だめ、破らないで……」 誰に向けた願いなのか分からないまま、彼女は作業台の上で身をかがめる。懐中電灯の光を、隙間へ細く差し込んだ。そこには暗い空洞があり、紙と紙のあいだに、何か薄いものが丁寧に畳まれているのが見えた。 「手紙……?」 つまみ上げた瞬間、指先に伝わったのは古い紙特有の、乾いていながらも弱々しい重みだった。封も紐もない。だが、折り目の角はきっちり揃えられていて、長く隠されることだけを前提にしていたようだった。 柚羽は作業台の端に腰を下ろし、慎重にそれを開いた。紙面には、墨のかすれた文字がいくつも連なっている。古い文章なのに、妙に熱の残り方が生々しい。 「……読める」 一行ずつ追うたび、背筋の冷たさが別の形に変わっていく。そこには、失踪した画家の名があった。完成前夜、誰かに向けて綴ったらしい文面は、切迫していた。 自分の描いた人物像に、残しておきたい記憶を託したこと。言葉にできないまま消えそうなものを、絵の中へ縫い留めたこと。そして、どうか作品だけは守ってほしいと、たった一人に願っていたこと。 柚羽は思わず息を呑んだ。 「記憶を……絵に?」 人物の顔が入れ替わって見えた理由が、急に別の輪郭を持ち始める。絵はただの飾りじゃない。ここには、描いた者の消えかけた思いが封じられていたのかもしれない。 さらに、文面の端に、震えたような筆致で補われた一節があった。守るべき者は外にいるのではなく、館の中にいる。作品を動かし、記録を歪める者がいる。絵を入れ替えれば、百年前の記憶も薄れていくと。 柚羽の喉がきゅっと鳴った。 「……館内に、いる」 外部の贋作師ではない。何年もこの館に仕えてきた人物が、絵をすり替え、失踪の痕跡を消そうとしていた。慎一の顔が脳裏をよぎるが、手紙はそこまで名指ししていない。ただ、長く館を守る立場の誰か、としか。 それでも十分だった。怪異と工作は、最初から同じ手で触れられていたのだ。 柚羽は手紙を胸に抱え、作業台の上でしばらく動けなかった。紙の匂いと、古い糊の匂い。そのあいだに、百年前の呼吸がまだ細く残っている気がした。 「お願いしたかったのは、消えることじゃなかったんだ……」 静かな声が、修復室の暗がりに吸い込まれる。彼女は手紙を開いたまま、乱れた文字の最後を見つめた。そこには、誰かに見つけてほしいという、かすかな祈りだけが残っていた。

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