柚羽は手紙を胸に押さえたまま、しばらく動けなかった。修復室の暗さの中で、古い紙の匂いだけがやけに鮮明だ。百年前の画家は、消えたのではなく、何かを守るために自分の痕跡を絵へ隠した。そう考えた瞬間、今までの違和感が一本の線になる。 「展示そのものが、鍵……?」 誰にともなく呟いて、柚羽は顔を上げた。手紙に書かれた内容を思い返す。記憶を託した人物像。守られるべき作品。館の中にいる、作品を動かす者。ならば、展示順にも意味があるはずだ。絵をただ並べるのではなく、視線と視線をつなげることで、隠したものの在り処を示すような。 彼女は慎重に手紙を折り直し、懐中電灯をくわえたまま修復室を出た。廊下は相変わらず静かで、雨の気配だけが壁の向こうで低く鳴っている。企画展示室へ戻る扉の前に立つと、胸の鼓動が少し早くなった。 「やってみるしかない」 展示室に入ると、黒い空間に絵が浮かんでいた。柚羽は壁際の順番を思い出しながら、台座の位置を少しずつ見直していく。空いた場所を埋めるように、肖像画の見え方が変わった。さっきまでばらけていた視線が、ある一点へ、さらにその先へと集まり始める。 「こっちを見てる……いや、違う。導いてる?」 彼女は息を呑んだ。人物たちの目線は、展示室の端、普段なら誰も気にも留めない影の溜まりへ向かっている。柚羽がそこへ近づくほど、絵の中の向きがそろっていく。まるで、答えのありかを教えるために、長いあいだ待っていたみたいだ。 影の奥に、目立たない小さな台があった。そこにあるはずのない不自然な空白。柚羽は喉を鳴らした。 「……ここ」 触れれば分かる。盗まれた小品が、この中に隠されている。なのに、その事実以上に胸を締めつけたのは、展示を組み替えるたびに深まる、百年前の失踪の重みだった。これは単なる盗難事件じゃない。作品をめぐる意図的な封印だ。誰かが記録を削り、配置を変え、消されたものを見えない形で守り続けてきた。 柚羽は手を伸ばしかけて、ふと止めた。今この場で取り出す前に、もう一度だけ絵の顔を見上げる。視線はなおも、その台の奥を指している。 「守るために、隠したの……?」 答える声はない。だが、沈黙は否定しなかった。 柚羽はゆっくりと息を吐き、隠し場所の前で手を止めたまま、次の確かめへ進む覚悟を固めた。
雨籠りの画布、失踪は暁へ
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