柚羽は台の前で、ほんの一歩ぶん息を止めた。指先の先にある空白は、ただの隠し場所ではない気がした。絵の人物たちが一斉に視線を集めた先に、何かを押し込めた痕跡がある。彼女は喉の奥を鳴らし、慎重に台の縁へ手を伸ばした。 「……開くの、これ」 声はかすれていた。けれど、触れた場所はわずかに沈む。小さな引き戸のように、台の一部が滑る手応えが返ってきた。 「やっぱり」 中にあったのは、折りたたまれた布と、丁寧に包まれた小品だった。柚羽は息を呑む。大きさも形も、台帳で消えていた保管予定の品と一致する。だが、それだけではなかった。布の間に挟まれた薄い紙片には、管理番号の下書きのようなものが走り書きされている。 「記録が……差し替えられてる」 背筋に冷たいものが落ちる。消えた作品を隠すだけじゃない。最初から別の場所にあったことに見せかけ、誰かが記録を組み替えていたのだ。柚羽は紙片を読み返し、震える指で照明にかざした。古い印字の上から、後で書き足した癖のある文字が重なっている。 「長く、ここにいた人の字……」 その瞬間、廊下の奥から微かな足音がした。急ぐでもなく、逃げるでもない。けれど、慣れた歩幅だった。柚羽は振り向く。薄暗い出入口の向こうに、保管作業着の裾が一瞬だけ揺れた。 「待って」 呼びかけた声に、足音が止まる。誰かがそこにいる。外の犯人ではない。雨の夜も、朝の準備も、この館の裏側をずっと知っていたはずの動きだ。 「記録を書き換えたの、あなたでしょ」 返事はない。だが、扉の向こうの気配が、わずかに強張った。柚羽は包みを抱え直し、隠し台と出入口を交互に見やる。 「百年前のことまで、消そうとしてたんですね」 静かな沈黙の先で、何かがかすかに擦れた。引き返す音ではない。むしろ、追い詰められた者が最後に選ぶ場所へ向かう、固い気配だった。 「その先に、持ち出し先があるんだ」 柚羽は低く言った。盗難品は、まだ館のどこかへ隠されているのではない。もうすぐ、目の届くところへ辿り着く。彼女は抱えた小品を見下ろし、絵の中で見守るように集まった視線をもう一度仰いだ。 「……逃がさない」 薄い朝の気配が、搬入口の奥に差し込み始めていた。
雨籠りの画布、失踪は暁へ
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