エラベノベル堂

雨籠りの画布、失踪は暁へ

全年齢

小説ID: cmnenb33x004h01n3z7di2bqd

9章 / 全10

薄い朝の気配が差し込む展示ホールの中央で、柚羽は抱えた小品を胸に寄せたまま立っていた。搬入口のほうへ伸びた影は、まだ夜の名残を引きずっている。さっきまで聞こえていた足音は消えたのに、慎一だけがその場に残っていた。 「そこまで見たなら、もう隠しても無駄か」 慎一の声は低かった。諦めにも似ていたが、どこかで長く抑えていたものが外れたようでもある。 「……やっぱり、あなたが」 柚羽は喉を鳴らした。慎一は苦く笑う。 「外部の盗人だと思ったか。そんな単純なら、俺も楽だった」 彼は展示ホールの壁面を見上げた。絵の中の人物たちは、互いに視線を交わしながら、ひとつの場所を静かに指している。 「この館が建つとき、あの画家の作品は邪魔だったんだよ。記憶が残る絵なんて、都合が悪い。成立の記録に触れたくない連中がいてな。だから俺は、消えるように並べ替えて、帳面も直した」 「それで、百年前のことをなかったことにしたの?」 「なかったことにしたかったんだ」 慎一の指が、空いた台座の縁をなぞる。 「だが、絵は残った。残った以上、勝手に視線を結び直す。おまえが来る前から、ずっとだ」 柚羽は小品を持つ手に力を込めた。真相を暴けば、この館の評判は落ちる。特別展も、長く積み上げてきた信用も傷つくかもしれない。それでも、目の前の絵は嘘を許さないみたいに、百年前の配置を示していた。 「評判なんて、後でいいです」 自分でも驚くほどはっきりした声が出た。 「記録を消したままでは、作品も、あの人の記憶も、ずっと閉じ込められたままです」 慎一は目を伏せる。柚羽は一歩前へ出て、絵の並びをもう一度見渡した。人物たちの顔は、互いの輪郭を確かめるように静かだ。恐れていたはずなのに、今はその沈黙が背中を押してくる。 「私は、表に出します。百年前の記憶を」 その言葉が落ちた瞬間、展示ホールの空気がわずかに揺れた。慎一は何も言わない。ただ、視線だけが絵から柚羽へ移る。 柚羽は小品を抱えたまま、絵の中の人物たちが示す配置を見据えた。

9章 / 全10

TOPへ