エラベノベル堂

香の包み、季はひらく

全年齢

小説ID: cmnenbc7d004l01n3zswxbg1y

3章 / 全10

夏の朝の工房は、まだ暑さが本気を出す前の、少しだけ澄んだ空気を残していた。和真は机いっぱいに試作品を並べ、柚子の皮をすり下ろしては寒天に混ぜ、山椒の気配をほんの少しだけ忍ばせる。米粉の生地は、包んだ指先にさらりと吸い付いて、ほどけ方まで毎回ちがった。 「うーん、違うな」 和真は独り言をこぼし、菓子を二つ、三つと並べ替えた。ひとつは香りが先に立ちすぎる。ひとつは噛んだ瞬間に静かすぎる。別のひとつは、口に入れたあとに何も残らない。 「香りが来て、あとから歯ざわりが追いかける感じにしたいんだけど」 言いながら自分でも迷いが増す。季節を形にしたいのに、形だけが先走っている気がした。 背後で、盆を置く軽い音がした。 「兄さん、また増やしたんですか」 凛々が、半目で机を見ていた。 「増やしたっていうか、比べてる」 「比べすぎです。面白い発想なのはわかります。でも、これだと季節感がぼやけます」 その言葉は、包丁より静かに刺さった。 和真は顔を上げる。 「ぼやける?」 「はい。柚子も山椒も寒天も、どれもわかるのに、全部いっぺんに言われると、夏なのか、ただの新しい菓子なのか、少し見えにくいです」 凛々は言いにくそうに視線を外したが、もう止まらなかった。 「香りに寄せるなら、もっと季節の輪郭を絞ったほうがいいと思います。今のままだと、気持ちは伝わっても、時期が浮かびません」 和真は、手元の小皿を見つめた。柚子の明るさ、山椒のかすかな刺激、寒天の涼しさ、米粉のやわらかな芯。どれも捨てたくない。けれど、全部を抱え込んだままでは、肝心の夏が見えなくなる。 「……そっか」 声が思ったより小さかった。 「すみません、意地悪みたいになって」 「いや、助かる。正直、今ちょっと迷ってた」 和真が笑うと、凛々は少しだけ肩の力を抜いた。 それでも、机の上の菓子たちは黙ったままだ。どれも未完成で、どれも惜しい。和真は包み紙を指先で撫で、開いた瞬間の空気まで計算したいのに、開けた先にある景色がまだ定まらないことに気づく。夏の朝の光は白く、工房の奥までまっすぐ差し込んでいるのに、和真の中だけが、ひとつ前へ進めずにいた。

3章 / 全10

TOPへ