夜更けの工房は、昼の熱をすっかり吐き出して静まり返っていた。悠真は切り分けた試作を前に、ひとつも口に運ばず、ただ指で触れていた。寒天の角が砕ける乾いた感触、羽二重の表面が指紋を受け止める柔らかさ、焙った胡桃が残すかすかな油の気配。味を見るのではなく、菓子のまわりにあるものを拾うように意識すると、これまで見えていなかった欠けが少しずつ浮かんでくる。春の試作は香りを急ぎすぎていた。夏は軽さばかり追い、口の中で消える前の余韻が薄い。秋は香ばしさが前に出すぎて、山の空気ではなく焙煎の強さを語ってしまう。冬は静けさより重たさが先に立っていた。 翌朝、悠真は店先に出て、開店前の空気を深く吸い込んだ。まだ人通りの少ない商店街に、豆を煮る甘い匂いがゆるやかに広がっていく。ふと、その匂いだけで榊屋だとわかることに気づく。菓子は口に入る前から、もう始まっているのかもしれない。 その日の仕込みのあと、悠真は包材棚を開けた。和紙、掛け紙、細い水引、箱紐。菓子そのものしか見ていなかった自分に、そこは急に別の道具箱のように見えた。春なら、指に触れたとき少し繊維の立つ薄紅の和紙。夏なら、開けた瞬間にひやりと明るい印象を残す青みの白。秋は乾いた葉を思わせるざらりとした紙肌。冬は音を吸う雪のように静かな白。そんなことを考えていると、背後から澪がのぞきこんだ。 「兄ちゃん、菓子じゃなくて箱とにらめっこしてる」 呆れ半分の声だったが、悠真が説明すると、澪は意外にも真顔で棚の中を見渡した。 「だったら結び方も変えられるかも。包みを開くときの手応えって、けっこう記憶に残るし」 その言葉に、胸の奥の曖昧な輪郭がもう一段はっきりした。祖母は昔、客の前で箱を閉じながら言っていたことがある。菓子は手渡されて、紐をほどかれて、やっと景色になるのだと。悠真はその声を、今さらのように思い出した。 試作は少しずつ変わった。春は桜葉の香りを減らし、代わりに箱を開けたときだけふわりと立つよう、温度でほぐれる細工を考える。夏は寒天を薄くしすぎず、歯が触れた瞬間に小さく鳴るような割れ方を探る。秋は胡桃を砕く大きさを揃えず、木の実を拾うときの不揃いな楽しさを残す。冬は羽二重に空気を抱かせ、重さではなく静かなやさしさで包む口あたりへ寄せていく。 だが、父は新しい包み紙を前にしても、すぐにはうなずかなかった。 「菓子の外まで含めるのはわかる。だが、外側が立派で中が負けたら本末転倒だ」 厳しい言い方だった。けれど以前のような拒み方ではない。悠真は試作を差し出し、父は黙って指で割り、鼻先に寄せ、しばらく考え込んだ。沈黙は長かったが、最後に出たのは短いひと言だった。 「夏の層、もう少しだけ厚みを持たせろ。音だけじゃ腹に落ちん」 それは否定ではなく、直し方だった。悠真は小さく息をつき、ようやく父と同じ作業台の上に立てた気がした。工房の隅では、母が何も言わず新しい和紙の見本を揃え、澪が結び紐を指先で試している。榊屋の夜はまだ手探りのままだったが、止まってはいなかった。季節を届けるための道が、菓子の外側へも静かに伸び始めていた。
香の包み、季はひらく
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