エラベノベル堂

香の包み、季はひらく

全年齢

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5章 / 全10

夕方の光が厨房の木目を斜めに染めていた。火を落とした釜の余熱だけが、空気の底でじんわり息をしている。和真は小さな座卓を挟み、宏と京子の前に湯のみを置いた。 「改めて、話したいんだ」 宏は腕を組んだまま、短く息を吐く。 「また試作の話か」 「うん。でも、ただ新しいものを作りたいんじゃない。季節の記憶を閉じ込める菓子にしたい」 「売れる保証はあるのか」 即座に返ってきた声は、冷たいというより現実的だった。 「ないよ。けど、今のままじゃ届かない人がいる」 和真は拳を握りしめる。言葉にすればするほど、自分でも頼りないのがわかる。それでも引けなかった。 「香りが先に立つ瞬間って、あるだろ。包みを開けたときとか、口に入れる前とか。その一瞬で、昔の祭りとか月見とか、そういう景色まで呼び戻せたらって思ってる」 宏の眉がわずかに動く。 「景色を食わせる気か」 「違う。菓子に入れたいのは、味じゃなくて、思い出の入口なんだ」 その言い方は、和真自身にもまだしっくりきていなかった。だが、京子が静かに湯のみを置いた音で、厨房の空気が変わる。 「私は、わかるわよ」 和真が振り向く。京子はいつも通り穏やかに見えたが、口元はきゅっと結ばれていた。 「味がぼんやりしてきてもね、香りが立つ瞬間だけは、急に昔へ戻れるの。夜店の焼き栗の匂いとか、縁側で見た月とか。舌でわからなくても、胸の奥が先に思い出すのよ」 宏が何か言いかけて、やめた。 京子は続ける。 「だから和真の言うこと、そんなに突飛じゃないわ。むしろ、遅かったくらい」 「京子さん」 「売れるかどうかは、もちろん大事よ。でもね、誰かの記憶をそっと起こせるなら、それは店の力にもなるでしょう」 宏は黙ったまま、座卓の端を見つめている。反対の言葉はまだ残っているはずなのに、先ほどまでの鋭さは少しだけ鈍っていた。 和真は思わず京子を見る。 「本当に、そう思う?」 京子は微笑み、和真の手元へ視線を落とした。 「ええ。あなたが背中を押してくれるなら、今度は私が押す番ね」 その一言に、和真は喉の奥が熱くなるのを感じた。宏は小さく舌打ちし、だが立ち上がりはしない。 「好きにしろ、とはまだ言わん。だが、考え方はわかった」 「十分だよ」 和真が答えると、京子はふっと肩の力を抜いた。厨房にはもう火はないのに、不思議とさっきより温かい。 和真は座卓の上の湯のみを見つめた。湯気は細く、すぐに消えていく。それでも、香りは確かに残っていた。あの短い立ち上がりの中に、季節も、祭りも、月見も、全部が潜んでいる気がした。

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