エラベノベル堂

香の包み、季はひらく

全年齢

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5章 / 全10

翌朝、悠真は開店前の店先に立ち、まだ人影の薄い通りを眺めていた。昨夜からの雨が上がり、石畳には淡い光がにじんでいる。軒先の風鈴が、風もないのにかすかに鳴った気がした。その音で、ふいに祖母の声が胸の奥から浮かび上がる。季節は舌だけで感じるものじゃないよ。空気にも、音にも、手ざわりにも、ちゃんと宿るんだよ。幼いころ、志乃が柏餅の葉を撫でながら言っていた言葉だった。悠真はその場で息を止めた。自分はずっと菓子の中にばかり季節を閉じ込めようとしていた。けれど祖母が見ていたのは、もっと広い景色だったのだ。 工房に戻ると、悠真は試作をすべて並べ直した。春は菓子の香りを控えめにして、箱の内側に忍ばせた桜葉の移り香が、蓋を開ける一瞬だけ立つようにする。夏は寒天と葛の層を少しだけ波打たせ、噛んだときの小さな砕けが、水辺のきらめきを思わせるよう整える。秋は包み紙にごく細かな凹凸のある和紙を選び、指先に乾いた葉の気配を残す。冬は白い薄紙をもう一枚重ね、ほどく所作そのものが雪を分けるように静かになるよう工夫した。 昼すぎ、母が細い刷毛で箱の角を整えながら言った。 「開ける前から始まるお菓子なんて、志乃さんなら好きそうね」 澪も紐を結び直しながら頷く。 「春は蝶結びより片花結びのほうがいいかも。ほどくとき、するっといく」 そこへ父が来て、黙って夏の試作を一つ手に取った。割れ方を確かめ、箱を閉じてまた開ける。長い沈黙のあと、低く言った。 「外と中がやっと喧嘩しなくなってきたな」 ぶっきらぼうな言い方だったが、悠真にはそれで十分だった。父はさらに、秋の和紙を指で撫でてから、店の古い木箱を持ち出してくる。 「新しい箱は綺麗すぎる。これを使え。榊屋で長く使ってきた木だ。手に馴染む」 伝統を守る人だと思っていた父が、伝統の中から今に繋がる道具を差し出してくる。そのことが、悠真には何より心強かった。 夕方、病室へ向かう前に、悠真はひとりで春の箱を包んだ。和紙のかすかな繊維が指に触れ、結んだ紐が小さく鳴る。蓋を閉じた中で、桜葉の香りが温度を待っている。味ではなく、包みを撫でる手、開ける呼吸、立ちのぼる気配まで含めて一つの季節にする。その発想が、ようやく骨組みになった気がした。 病室の前で立ち止まったとき、胸の焦りは以前ほど暴れていなかった。まだ完成ではない。けれど、祖母に届ける道筋は見えた。菓子ひとつを作るのではなく、榊屋の手から祖母の掌へ渡るまでの時間そのものを仕立てるのだ。 扉の小窓の向こうで、志乃が外の薄明かりを見ていた。悠真は箱を抱き直し、静かに息を整える。店の伝統と、自分が掴みかけた新しい工夫。その二つは、ようやく同じ方向を向き始めていた。

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