病室に入ると、夕方の光が窓の縁に細く残っていた。志乃は振り向き、悠真の腕の中の箱に目を留める。以前のように、すぐ中身を尋ねることはしなかった。ただ、包みの色を見て、小さく笑う。 「今日は春だねえ」 その一言に、悠真は少し驚いた。まだ箱は閉じたままだ。けれど薄紅の和紙と細い紐の結び目だけで、志乃にはもう季節の入口が見えているらしかった。 「開けてみて」 志乃は箱を膝に乗せ、指先で和紙を撫でた。乾きすぎない繊維が、かすかに爪先へ返る。その手つきを見ていると、菓子に触れるというより、遠い日の風を探っているようだった。紐がほどける。するりと抜ける感触に、志乃の肩がほんの少しやわらぐ。蓋が持ち上がった瞬間、箱の内側に潜ませた桜葉の移り香が、遅すぎず強すぎず、静かに立った。 志乃はすぐには菓子を見なかった。目を閉じて、息をひとつ吸う。 「土が、まだ冷たいころの匂いがするね」 悠真の胸が、かすかに鳴った。味ではないところで、春が届いている。 その日から、病室は小さな試食の場になった。夏の箱を開けば、薄い層の菓子が歯に触れてほろりと割れ、その軽い響きに志乃は窓辺の風鈴の話をした。秋はざらりとした和紙を撫でながら、店の裏庭で落ち葉を掃いた朝のことを思い出した。冬は白い薄紙を一枚めくるたび、雪見障子を開けるみたいだと笑った。 味の感想は少ない。けれど志乃は以前よりずっと長く菓子と向き合った。包みを開き、香りを受け取り、ひと口だけ含み、目を閉じる。その沈黙はさびしいものではなく、何かを確かめている時間に見えた。 数日後の夜、店に戻ると父が帳場で古い帳面を開いていた。母は箱を拭き、澪は新しく届いた和紙を光にかざしている。悠真が病室での様子を伝えると、父はしばらく黙ったまま聞いていたが、やがて帳面を閉じて言った。 「ばあさんが昔、贈答用の箱にやけにこだわってた意味が、今なら少しわかる」 それは父なりの敗北でもあり、受け入れでもあった。 母がほっとしたように笑う。 「味だけじゃなくて、手渡すところまでがお菓子なのね」 澪は紐をくるりと回しながら、得意げに言った。 「だから言ったじゃん。ほどく感じ、大事だって」 皆の声が交わる工房で、悠真は作業台の木目を見下ろした。祖母のために始めた試みは、いつのまにか榊屋そのものの輪郭を少し変えつつある。変えることは、壊すことだと思っていた。父も、きっとそう思っていたはずだ。けれど本当に守るべきものは形ではなく、その先に誰かの季節を灯したいという願いなのだと、今ならわかる。 翌朝、店先に新しい菓子の案内を置いた。春夏秋冬をひと箱に収めた、季の便り。派手な文句は添えない。ただ、開けるところからお楽しみくださいとだけ記した。暖簾の向こうで、榊屋の百四十年目の朝がまた始まる。けれどその空気は、昨日までと同じではなかった。
香の包み、季はひらく
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