案内を店先に出した最初の日、客の反応は静かだった。立ち止まる人はいても、すぐに手に取る者は多くない。開けるところから楽しむ和菓子。言葉にすると簡単でも、榊屋が長く積み重ねてきた正しさから半歩外れているようにも見える。悠真は硝子越しに通りを見ながら、胸の奥にまだ残る不安を撫でていた。 昼前、常連の老婦人がひと箱買っていった。包みを受け取る手つきが丁寧で、悠真は思わず深く頭を下げた。数時間後、その人が戻ってきて、 「開けるとき、昔の贈り物を思い出したよ」 と笑った。それは大きな賛辞ではなかったが、悠真には十分すぎるほど大きかった。父はそのやり取りを黙って聞き、奥で新しい木箱の紐を確かめていた。 夕方、志乃の病室へ向かうころには、空にうすい茜が差していた。今日は四季を一箱ではなく、春だけを整えたものを持ってきた。季節を欲張らず、ひとつを深く届けようと決めたのだ。病室に入ると、志乃は窓辺で手を組み、外の桜並木を見ていた。花はまだ満開ではなく、ところどころに淡い霞のような色が浮いている。 悠真が箱を渡すと、志乃はいつもよりゆっくり包みに触れた。和紙の繊維を確かめ、結び目をほどき、蓋を開ける。ふわりと立った香りに、志乃のまぶたがわずかに震えた。菓子をひと口含み、噛まずにしばらく舌の上に置き、それから静かに飲み込む。 「うん」 それだけ言って、志乃は笑った。大きくではない。けれど、長いあいだ曇っていた窓に朝日が差すみたいな、澄んだ笑顔だった。 「味はね、まだ遠いよ。でも、春はちゃんとここに来た」 胸を押さえるようにして志乃がそう言った瞬間、悠真はようやく肩の力を抜いた。届いたのだと思った。舌ではなくても、菓子は季節を運べる。しかもそれは、味を諦めた代わりではなく、味を包み込むもっと広い器として。 帰ると店では、父が暖簾をしまうところだった。悠真が何も言わなくても、表情だけで伝わったのだろう。父は少し顎を引き、 「明日から箱の数を増やすか」 と言った。母は台所から顔を出して目を細め、澪は 「ほらね」 と小さく胸を張る。工房の灯りの下で、古い木箱と新しい和紙が並んでいる。その景色は不思議とちぐはぐではなく、前からそこにあったもののように馴染んで見えた。 悠真は作業台に手を置いた。伝統とは、形を動かさないことではない。誰かに季節を届けたいと願った、先人たちの手のぬくもりを次の形へ渡していくことだ。その夜の榊屋には、甘い匂いにまじって、たしかに新しい風が流れていた。
香の包み、季はひらく
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