翌朝、榊屋の工房には、まだ夜の名残のような青い静けさが残っていた。悠真は春の箱を前に、最後の手直しをしていた。菓子そのものはもう決まっている。白餡に移した香りはごく淡く、口に入れた瞬間よりも、箱を開けたときの空気が先に春を知らせるよう整えた。だが今日は、菓子ではなく包みの順番を変えてみる。薄紅の和紙の下に、白を一枚重ねる。色がいきなり現れるのではなく、朝靄がほどけるように春が見えるようにしたかった。 澪が横からのぞきこみ、指先で結び紐をつまんだ。 「それ、ほどいたあとに紙が少し戻るね。なんか、蕾がひらくみたい」 悠真はうなずいた。まさにそれだった。言葉にしきれなかった感覚を、妹が先に拾ってくれることが増えた。母は奥で箱の木肌を柔らかな布で拭きながら、ほのかに笑う。 「志乃さん、きっと最初に紙を撫でるわね」 父はそのやり取りを黙って聞いていたが、やがて春の箱を手に取り、いつものように重さではなく納まりを見るように掌で返した。そして低く言った。 「香りを仕込む位置、もう少し上だ。蓋を持ち上げたときに、一度だけ前へ出ればいい」 悠真はすぐに直した。父の指摘はもう拒絶ではなく、同じ景色を見たうえでの微調整になっている。そのことが、胸の奥で静かな支えになっていた。 昼前、店先で季の便りを見た若い夫婦が一箱買っていった。女の人は包みを受け取ると、開ける前からいい匂いがしそう、と笑った。実際には、まだ何の香りも立っていない。なのにそう思わせる手ざわりや色が、もう働き始めているのだと知って、悠真は小さく息をついた。菓子は舌の上に届く前から、ちゃんと始まっている。 夕方、病室に向かう道の空気はやわらかかった。川沿いの桜は三分ほど開き、風が通るたび、枝先がかすかに鳴る。悠真は箱を抱えながら、祖母の言葉を反芻していた。季節は舌だけでなく、空気や音や手ざわりでも感じるもの。その言葉に背中を押されてここまで来たのに、今になってようやく、その本当の広さがわかり始めていた。 病室で志乃は、箱を受け取るとすぐには開けなかった。膝の上に置き、両手で包むようにして、しばらく目を細めている。まるで春そのものの温度を量っているみたいだった。それから和紙を撫で、紐をほどき、白い紙を一枚めくる。最後に薄紅が現れたとき、志乃の口元がふっとやわらいだ。 蓋が開く。仕込んだ香りが、ごく短く、けれど確かに立つ。 志乃は息を吸い、声を落とした。 「朝の庭だねえ」 そのひと言に、悠真の胸の奥で何かが静かに結ばれた。菓子を食べる前に、もう景色が届いている。志乃は練切をひと口含み、ゆっくりとうなずいた。 「榊屋の春だよ」 帰り道、悠真の足取りは不思議なほど軽かった。新しいことをしたのに、店から遠ざかった気がしない。むしろ、祖母や父が守ってきたものの中心へ、ようやく自分も触れられた気がした。暖簾の向こうへ戻ると、工房では父が次の箱を組み、母が和紙を揃え、澪が紐を結んでいる。古い木箱、新しい工夫、積み重ねた手つき。そのすべてが同じ流れの中にあった。榊屋の伝統は、止まった形ではなく、誰かの季節を迎えにいくための動きそのものなのだと、悠真ははっきり知った。
香の包み、季はひらく
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