エラベノベル堂

深き回線、潮の黙示

全年齢

小説ID: cmnenbghw004n01n39jmdghce

3章 / 全10

深夜零時を回るころ、みらい二号の制御室には機器の駆動音とキーボードの乾いた打鍵だけが残っていた。真琴は仮眠を取れという相良の忠告を聞き流し、由良の隣で解析画面を見つめていた。複数言語に見えた断片を、意味ではなく出現位置と間隔だけで並べ直すと、奇妙な癖が浮かび上がる。文章ではない。誰かの主張でも警告でもなく、もっと無愛想で、冷静な記録の列だった。 見てください、と由良が囁いた。市場変動の前に入る符号、衛星経路の乱れの後に続く符号、その並びが全部同じ階層に収まります。 真琴は画面を拡大した。たしかにそこには言語の皮をかぶった目盛りのようなものがあった。国も企業もばらばらの形式で世界を管理しているはずなのに、このログだけは最初からその上に別の定規を置いて測っている。誰が何をしたかではなく、情報がどこで滞り、どこで偏り、どこで引き絞られたかだけを記しているように見えた。 そのとき、船内ネットワークの監視端末が短く鳴った。外部からの接続試行。すぐに遮断されたが、由良が顔を上げる。 今の、代表回線じゃないです。保守用の閉域側に直接来ました。 相良が椅子を蹴って立ち、通信機器のログを確認する。船の運用上、そこを知っているのは限られた関係者だけだ。梶の喉がごくりと鳴るのが聞こえた。昼間までの問い合わせは表玄関からのノックだった。今のは、家の鍵穴に細い針を差し込まれた感触に近い。 十分後、今度は船長経由で本社から連絡が入った。作業優先順位の見直しを命じる、という名目だったが、要点は一つだった。未確認ログに関する独自解析を止め、取得データを陸上の指定先へ転送しろ。判断は上で行う、と。 船長は苦い顔で端末を置いた。現場の裁量を奪うには不自然な速さだった。真琴は受領確認だけ返し、転送処理を保留にした。 従うんですか、と梶が聞く。 従う準備はする。でも、丸ごとは渡さない。 真琴の声は自分でも驚くほど静かだった。反抗したいわけではない。ただ、正体のわからない相手が同時に手を伸ばしてくる状況で、全部を一か所に集めるのは危うい。情報は守るために閉じることがある。けれど閉じすぎれば、今度はそれ自体が武器になる。 由良が解析の最終窓を開く。ログの核にあたる部分だけ、どうしても暗号の層が剥がれない。だが完全な解読ではなく、圧縮の癖から元の構造を推定すると、そこには送受信というより監査記録に近い骨組みが見えてきた。誰かが海底ケーブルそのものを通じて会話しているのではない。海の下を流れる膨大なやり取りを、長い時間をかけて外側からなぞり、呼吸のように記帳していた何かの痕跡だ。 国家でも企業でもないかもしれない。 相良の独り言に、誰もすぐには答えなかった。もしそうなら、いま自分たちが掴んでいるのは盗まれた機密ではない。もっと厄介な、誰の所有物でもない観測の残響だ。だからこそ、誰もが欲しがる。所有者不明の地図ほど、争いを呼ぶものはない。 真琴は冷えたコーヒーを一口飲み、決めた。全データをそのまま流さず、解析済みの断片も分散して保全する。船内だけで抱えるには重すぎるが、どこか一つに明け渡すには危うすぎる。海図のない海域に入ったなら、まず沈まないことを考えるべきだった。 窓の外では、見えない深海へ向けて探査機が静かに降りていく。誰も知らない記録は、まだ海の底で続いている。世界の表面では眠らない都市が瞬き、数字が動き、人々はいつもどおり朝を待っている。その足元で、名もない線が膨大な秘密を運び、その流れをさらに別の何かが数えている。真琴は画面の淡い光に照らされながら、自分たちがもうただの点検作業の中には戻れないことを悟っていた。

3章 / 全10

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