エラベノベル堂

踏み出す輪郭、風は遅れない

全年齢

小説ID: cmnenc1l9000001mn45lafs0i

3章 / 全10

開催最終日を二日後に控えたころ、遼の机には紙の束が小さな山を作っていた。周回ごとの速度、位置取り、踏み出しの反応、練習と本番での差。線を重ねるたび、三崎の走りは単純な衰えでは説明できないとはっきりしていく。重要な局面で迷いが生まれ、その迷いを埋めるように無難な選択を重ねる。結果として大崩れはしないが、勝ち筋だけが細っていく。数字は冷たいはずなのに、その形はまるで古傷をかばって歩く人の足取りに似ていた。 遼は思い切って、過去の映像を三崎と並んで見た。数年前、接触寸前になった開催の記録である。画面の中の三崎は今より鋭く、前へ出る意志がはっきりしていた。だが勝負どころでわずかに進路を誤り、隊列が波打つ。事故にはならなかったものの、その一瞬だけで流れは壊れていた。映像が止まると、三崎は無言で視線を落とした。遼は慎重に口を開いた。あの場面を忘れろとは言いません。でも、あのときの失敗だけが今の基準になってる気がします。三崎はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。一回の判断で、人のレースまで潰しかけた。そういうのは、脚より長く残る。 その言葉を聞いて、遼はようやく数字の外側にある重さを掴んだ。だから整備でも、速さそのものより先に、踏み出しても大丈夫だと思える感触を作る必要があった。サドルはさらにほんのわずかだけ前へ、ハンドルの開きを戻しすぎない範囲で固定し、グリップは使い慣れた硬さに近いものを選ぶ。極端な変更はしない。ただ、決断の直前に余計な確認をしなくて済む形へ整える。 相馬は練習で何度も三崎の前を引き、あえて勝負どころの再現を繰り返した。七海は周回ごとの表情まで書き留め、先輩整備士は遼の案を黙って検証した。誰か一人の仕事ではなくなっていた。三崎もまた、反発を隠さなくなった代わりに、曖昧に逃げることもしなくなった。ここは踏みやすい、ここは逆に考えすぎる。そんな短い言葉が整備場に落ちるたび、皆の手つきが少しずつ揃っていく。 前検日の夕方、三崎は調整を終えた車体にまたがり、バンクをゆっくり一周した。戻ってきた顔に派手な変化はない。けれど、降りるときの動きに迷いがなかった。遼が様子をうかがうと、三崎はフレームを軽く叩いて言った。怖さは消えないな。でも、前より静かだ。遼はうなずいた。消すんじゃなくて、並んで走れる形にしたかったんです。 その夜、整備場の灯りが落ちる間際、先輩整備士が珍しく缶コーヒーを一本投げてよこした。受け取った遼に、彼は壁にもたれたまま言う。技術で直るもんと、そうじゃないもんがある。だが技術があるから、心が置き去りにならずに済むこともある。遼は缶の温かさを掌に感じながら、静かに息をついた。最終日は近い。期待も不安も、もう誰も口にして誤魔化さなかった。ただ同じ方向へ向いた視線だけが、春の冷たい夜気の中で、かすかな熱を保ち続けていた。

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