最終日の朝、競輪場には前日までとは違う緊張が満ちていた。売店の湯気も、観客席を掃く竹ぼうきの音も、どこか遠くに感じられるほど、整備場の空気は張りつめていた。三崎の出走する最終レースは、若い実力者も遠征組の巧者も揃った番組で、名前だけ見ても息が詰まる。遼は何度も確認した調整表を閉じ、車体を前に深く息を吐いた。ここまで積み上げてきたものを信じるしかない。そう思っていた矢先、試走から戻った三崎が、わずかに眉をしかめた。 踏み出しで、少し逃げる。 短い一言だったが、遼の背中に冷たいものが走った。すぐに車体を受け取り、前輪、ハブ、チェーンライン、ペダルの遊びまで一つずつ確かめる。目立った異常はない。それでも三崎は、いつもなら最初の二踏みでまとまる感触が、今日は遅れて来ると言う。先輩整備士も呼ばれ、相馬も横からのぞき込み、整備台の周りに無言の輪ができた。七海は少し離れた場所で様子を見ながら、表情だけを険しくしていた。 遼はこれまでの記録を頭の中でめくった。ためらいの出る局面、改善した日のポジション、練習で安定したラップ。けれど、そこでふと引っかかった。感触が乱れるのは、重い日でも軽い日でもなく、周囲の動きが早いと予感したときに限っていた。機材の問題に見えて、実は三崎自身が無意識に最初の入力を探り、確かめる時間を作ってしまっているのではないか。遼は三崎を見上げた。 一拍目を確認に使ってませんか。 三崎は答えなかった。だが、視線が止まった。それだけで十分だった。遼は続けた。仕掛けをためらう癖じゃなくて、判断の前に感触を確かめる癖が連鎖してるんです。踏み出しで確かめる、位置取りで確かめる、出口でまた確かめる。そのぶん全部が半拍ずつ遅れる。三崎は唇を結んだまま、整備台の端に指を置いた。先輩整備士が低く言う。なら、今日は確かめなくて済む形にするしかないな。 遼はすぐにハンドル周りを見直した。大きく変えるのではなく、握った瞬間に迷いが入りにくい角度へ、ごくわずか戻す。サドルも弄らない。変化を増やせば、また確認が増えるだけだ。必要なのは速さを足すことではなく、最初の判断を細らせないことだった。相馬が三崎の前に立ち、笑いも混ぜずに言った。今日は考える前に、決めた形で来てください。後ろが見たいのは、迷ってる背中じゃないです。 その言葉に、三崎はようやく息を吐いた。長く、胸の奥に溜めていたものを出すように。怖さは消えない、と彼は言った。消えなくていい、と遼は返した。消えないまま遅れない形にします。三崎は遼の顔を見て、次に車体へ視線を落とし、静かにうなずいた。 発走時刻が近づき、場内のざわめきがひとつの波になって高まっていく。七海はペンを握ったまま何も書かず、相馬は柵の向こうで腕を組み、先輩整備士は壁に寄りかかって目を細めていた。三崎はサドルにまたがる前、珍しく遼に向かって言った。勝てるかは知らん。でも、今日は待つためには乗らない。遼はそれに、はい、とだけ答えた。送り出す手のひらには汗が滲んでいたが、不思議と震えはなかった。バンクへ向かう三崎の背中は、春先の冷たい光の中で、これまでよりほんの少しだけ前へ傾いて見えた。
踏み出す輪郭、風は遅れない
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