エラベノベル堂

踏み出す輪郭、風は遅れない

全年齢

小説ID: cmnenc1l9000001mn45lafs0i

4章 / 全10

食堂の閉店前は、昼の喧騒が嘘みたいに静かだった。洗い場の水音だけが、金属の皿をやわらかく叩いている。直樹が一人で端の席に座っていると、向かいの椅子が少しだけ引かれた。 「まだ残ってたのか」 正彦だった。汗は引いているのに、どこか練習走行の余韻を抱えた顔をしている。直樹は端末を閉じてから、箸を置いた。 「記録を整理してました」 「真面目だな。飯くらい、もっと気楽に食えよ」 正彦は湯気の立つ椀を手で包み、しばらく黙っていた。閉店前の静けさが、ふたりの間に妙な間を作る。やがて彼は、椀の縁を見つめたまま言った。 「昔な、決勝で最後まで先頭にいたことがある」 直樹は顔を上げた。 「それで、負けたんですか」 「負けた。残りで差されて、何もできなかった」 正彦は笑おうとして、すぐやめた。 「そのときからだ。期待されるほど、怖くなる。勝てるって言われるたびに、足が勝手に慎重になる。才能がないからじゃない。俺は、勝つ場面でビビるんだ」 直樹はしばらく考えてから、静かに言った。 「統計は過去を照らします。でも、未来を縛るものじゃありません」 「……お前、そういうこと平気で言うな」 「事実ですから」 正彦は鼻で笑った。けれど、その笑いはさっきまでよりずっと軽い。 「変なやつだな。俺が弱いって話をしてるのに、縛るなって言うのか」 「弱いんじゃなくて、怖さが強いだけです」 「同じじゃねえか」 「違います。怖さは、扱えます」 その言葉に、正彦は箸を止めた。少しだけ目を細め、直樹の顔を見返す。 「扱える、か」 「はい。だから、今の正彦さんを過去の負けで決めなくていいです」 食堂の奥で、椅子が一脚引かれる音がした。閉店の気配が、ゆっくりと近づいてくる。正彦は椀を持ち上げ、ひと口だけ飲んだ。 「……お前にそう言われると、不思議と腹が立たない」 「怒る理由がないです」 「あるさ。悔しいんだよ。誰にも言えなかったことを、簡単に言い当てられると」 直樹はわずかに目を伏せた。 「簡単じゃないです。ちゃんと見ないと分からない」 「見てるんだな、俺のこと」 「はい」 正彦はその返事を聞いて、今度は本当に笑った。大きな笑いではない。ただ、張りつめていたものが一つほどける音がした。 「なら、頼む。俺の怖さも、走りも、まとめて見てくれ」 「分かりました」 直樹がうなずくと、正彦は椀を置いたまま少しだけ身を引いた。その仕草は、距離を取ったというより、任せる覚悟に近かった。 「戦術の話だけじゃないな」 「ええ」 「こういうのを信頼って言うのか」 直樹は少しだけ考え、静かに答えた。 「たぶん、始まりです」 正彦は小さく息を吐き、窓の外へ目を向けた。閉店間際の食堂に、外の夜気が薄く差し込んでくる。彼の表情はもう、さっきまでの硬さではなかった。 「始まり、か」 「はい」 「なら悪くない。俺はまだ、怖がったままでいいわけだ」 「怖いままでも走れます」 その言葉に、正彦は今度こそはっきりと頷いた。

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