昼の整備ブースは、工具の触れ合う音と、換気扇の低い唸りで満ちていた。直樹は机に広げた図面と端末を見比べながら、黒田専用の調整案を何度も書き直している。発進時の姿勢を少しだけ前へ寄せ、後輪の遊びを細かく詰める。たったそれだけの差が、正彦の迷いを受け止める土台になるはずだった。 「……これでいける」 小さく呟いた直樹の前に、見慣れない名札が陰を落とした。 「黒田選手を変えた新人って、君?」 顔を上げると、地元記者らしい男が立っている。ノートを胸に抱え、もう周囲の視線まで連れてきていた。 「まさか本当に、無名の整備士がベテランを立て直すのかと、ちょっと話題でね」 その一言で、ブースの空気が変わる。椅子を動かす音、息をのむ気配、誰かがわざと視線を逸らす気配まで、全部が一斉に直樹へ集まった。 「話題にするなら、もう少し静かにしてくれ」 直樹がそう返すより早く、奥から正彦が現れた。だが、いつもの落ち着きはどこか薄い。記者の視線を受けた瞬間、肩がわずかに硬くなる。 「おい、勘弁してくれよ。俺を見に来たのか、整備士を見に来たのか分からねえ」 「どっちも、かな」 記者は笑ったが、周囲の興味はもう抑えられない。正彦は一歩だけ退き、端末の画面と周囲の顔を交互に見ている。 直樹はその様子を見て、すぐに言った。 「大丈夫です。見られるほど、癖は強くなる。だからこそ準備するんです」 「準備?」 「注目された状態で崩れないように、今ここで整えるんです。視線は消せません。でも、視線が増えるなら、その分だけ手順を固めればいい」 正彦は黙ったまま、少しだけ息を吐いた。動揺が完全に消えたわけじゃない。けれど、直樹の声で足元が確かに戻ってくる。 「……お前、ほんとに平然としてるな」 「平然じゃありません。やることが決まってるだけです」 記者はペンを走らせながら、面白そうに二人を見比べた。だが直樹はもう視線に揺れない。正彦の車体へ戻り、後輪の感触を確かめる。 「ここ、もう少しだけ詰めます。発進の一瞬で外へ逃げにくくなるはずです」 「分かった」 正彦は頷いた。その頷きは、先ほどより少し深い。 「見られるのは慣れてるつもりだったが、こういうのは別だな」 「慣れる必要はないです。慣れなくても、走れます」 その言葉に、正彦は短く笑った。周囲のざわめきはまだ続いている。けれど、その中心で二人だけが、次の一手を静かに合わせていた。
踏み出す輪郭、風は遅れない
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