エラベノベル堂

踏み出す輪郭、風は遅れない

全年齢

小説ID: cmnenc1l9000001mn45lafs0i

5章 / 全10

発走を告げる鐘が鳴ると、場内の空気は一段深く沈み、その底で熱だけが静かにうねった。三崎は誘導の後ろにつき、無理に位置を取りにはいかなかった。遼は柵越しにその背中を見つめながら、慎重さと遅れは違うと自分に言い聞かせた。前半の周回、三崎の動きは抑えられていたが、硬くはない。むしろ脚を余らせるための静けさに見えた。遠征の有力選手が外を意識させ、若手が内で呼吸をうかがう。隊列は細い糸のように張りつめ、ひとつ触れれば形を変えそうだった。 打鐘前、相馬が小さく息を呑むのが遼にもわかった。いつもの三崎なら、ここで一度だけ周囲を見すぎる。確かめるための半拍が入り、その間に道が狭くなる。だがこの日は違った。前の選手が踏み上げるより、ほんのわずか早く、三崎は自分の車輪を外へ持ち出した。速さそのものは突出していない。それでも決断が先にあった。迷いが遅れてくる前に身体が動いたのだ。 一気に隊列が崩れ、最終ホームで三崎は三番手の外に並んだ。観客席から波のような声が起こる。遼の喉はからからに乾いた。先輩整備士は腕を組んだまま動かず、七海は書くことも忘れてバンクだけを見ていた。バックに入るころ、内外の駆け引きは激しさを増し、外を踏んだ三崎の脚にも重さが乗り始める。それでも、これまでのように引かなかった。勝ち切るためというより、自分で選んだ判断を最後まで通すための踏み方だった。 四コーナー。先頭では若い本命選手が鋭く伸び、その後ろを別線の巧者が迫る。三崎は並びかけた位置からさらにもうひと伸びを試みたが、直線でわずかに及ばない。結果は三着。着順だけ見れば、劇的な優勝ではない。場内アナウンスも最初は淡々としていた。けれど次の瞬間、観客席のあちこちから起きた拍手が、遅れて大きなうねりになった。地元の客は知っていたのだ。あの半歩が、今日どれほど早かったかを。 戻ってきた三崎は汗に濡れ、肩で息をしながら車体を降りた。悔しさは隠していなかった。それでも顔には、負け慣れた者の曇りがなかった。遼が自転車を受け取ると、三崎はしばらく黙り、やがて低く笑った。勝てなかったな。はい、と遼も笑った。三崎は続けた。でも、今日は負け方を選ばなかった。そう言ってフレームを軽く叩いた手は、前よりずっと軽かった。 七海は目元を赤くしながら、これ、記事にするとしたら難しいですねと言った。優勝じゃないのに、たぶん今日がいちばん伝えたい日です。相馬は興奮したまま、あの踏み出し見ましたか、と誰にともなく繰り返している。先輩整備士は鼻で笑い、帳面磨きのくせに、最後はちゃんと現場の顔になったなと遼の肩を叩いた。 遼は整備台に置いた車体を見つめた。数字は三着を示すだけだ。けれど、その中には確かに書ききれない変化がある。そして同時に、その変化を掴む手がかりもまた数字の中から始まっていた。勝てないベテランという貼り紙は、もう前と同じ意味では使えない。春の夕方の光がバンクを斜めに照らし、競輪場には終わりではなく、次の開催へ続く熱が静かに残っていた。

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