エラベノベル堂

踏み出す輪郭、風は遅れない

全年齢

小説ID: cmnenc1l9000001mn45lafs0i

7章 / 全10

最終日の夜、宿舎へ戻るころには、競輪場を包んでいた熱もゆるやかに冷め始めていた。だが遼の胸の内だけは、整備場の照明が落ちたあとも妙に静まらなかった。三着という結果、直前の不調、見落としていた半拍の遅れ。そのすべてが、うまく収まったはずなのに、どこかでまだ答え合わせが終わっていない気がしたのである。 翌朝、遼は始発前の薄明るい整備場に一人で入り、三崎の車体をもう一度点検した。癖を直したのではない。迷いが連鎖する隙を減らしただけだ。その結論は変わらない。だがフレームに触れた瞬間、彼はふと気づいた。自分は三崎のための分析をしていたつもりで、いつの間にか三崎を変えることばかり考えていたのではないか、と。 そこへ、珍しく早い時間に三崎本人が現れた。缶コーヒーを片手に、眠そうな顔で、それでも足取りだけは軽い。遼が頭を下げると、三崎は整備台の自転車を見て笑った。 まだ見てるのか。 昨日のこと、整理したくて。 遼がそう答えると、三崎は少し黙ってから、意外なことを言った。 礼を言うのは、たぶんこっちだけじゃないな。 遼は意味がわからず顔を上げた。三崎は缶を整備台に置き、指先でフレームを軽く叩いた。 お前、最初から俺を勝たせようとしてた。でも昨日の最後で、たぶん自分でもわかっただろ。勝つための正解なんて、そんなきれいに一本じゃない。あの半拍が詰まったのは、数字のおかげでもあるし、相馬の声のおかげでもあるし、昔の失敗を忘れなかったからでもある。 遼は返す言葉を探したが、三崎は先に続けた。 整備士は走れない。だが走れないから見えるものがある。昨日、お前は俺の遅れを見抜いた。でもたぶん、いちばん変わったのは俺じゃなくて、お前のほうだ。 その言葉は、不意に胸の奥へ深く入った。遼は数字で輪郭を与え、整備で支えることができると信じてこの場所へ来た。だが本当は、自分自身が結果ばかりを恐れ、見誤ることを恐れ、帳面の中に安全な答えを探していたのかもしれない。 しばらくして相馬と七海、先輩整備士も姿を見せ、いつもの朝の雑多な空気が戻ってきた。七海は配信の反響を嬉しそうに話し、相馬は次こそ一緒に前で勝負したいと騒ぎ、先輩整備士は黙って工具棚を開けた。何も特別な朝ではない。それなのに遼には、競輪場全体が昨日までとは少し違う角度で光を返しているように見えた。 そのとき、三崎がふいに皆へ向かって言った。 俺、次の開催で地元を外れる。少し遠征に出る。 場が一瞬、静まった。七海が目を瞬かせ、相馬がえ、と声を漏らす。遼も息を止めた。ようやく積み上がり始めたものが、ここで途切れるのではないかと思ったからだ。 だが三崎は、遼のほうを見て笑った。 ここで変われたなら、次は知らない場所で試したい。地元で塗り替えた名前を、本物にするにはそれがいる。 別れのようでいて、それは終わりではなかった。むしろ、ここで生まれた変化が競輪場の外へ持ち出されるということだった。遼はようやくうなずき、整備記録の新しい頁を開いた。昨日の三着は結末ではなく、誰か一人の再出発でもない。この場所で芽吹いた小さな熱が、別のバンクへ運ばれていく始まりだった。春の朝の風はまだ冷たかったが、遼の指先には、次の調整へ向かう確かな温度が残っていた。

7章 / 全10

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