エラベノベル堂

踏み出す輪郭、風は遅れない

全年齢

小説ID: cmnenc1l9000001mn45lafs0i

7章 / 全10

眠気の薄い蛍光灯の下で、正彦は椅子に深くもたれたまま、何度目かのため息を落とした。談話室はもう静かで、窓の外に貼りついた夜だけが、やけに濃く感じる。直樹は向かいのテーブルに端末と紙を広げ、正彦の前にある空の湯飲みをそっと避けた。 「眠れないんですか」 「眠れるわけねえだろ」 正彦は苦く笑った。笑い切れない顔だった。 「決勝で、最後に差された。あの瞬間が、何度も頭の中で再生される」 直樹はすぐに言葉を返さなかった。ただ、端末の画面を切り替え、当時の通過順と位置取りを淡々と並べる。 「最後の差し切りを許したのは、脚の衰えだけじゃないです」 「分かってる。だから、お前に見てもらってる」 「正確には、逃げ切る覚悟が足りなかった」 その一言に、正彦の肩がわずかに動いた。 「……言うなりゃ、俺は勝ちを守るのが怖かった」 「ええ。数字で追えるのは、位置と速度までです。でも、最後に前に残る意思までは測れません」 直樹は紙に線を引き、二人の車群を並べ直した。 「だから、そこを埋めます。逃げるか、包まれるか、差すか。少なくとも三通りは想定しないと足りない」 「三通り?」 「相手が一つの読みなら、こちらは三つで返す。外から来るなら外を使う。内を締めるなら一度待つ。もっと早く動くなら、先に重心をずらす」 正彦は眉を寄せたが、すぐに口元を歪めた。 「お前、ほんとに勝負を図面みたいに扱うな」 「図面にしないと、迷いが増えます」 「迷いか」 「はい。だから何度も書き直します」 直樹は一本線を引き、すぐ消し、また別の位置へ線を足す。正彦も身を乗り出し、指先で紙の端を押さえた。 「相手が先に仕掛けてきたら」 「その時は、正彦さんの癖を見せる位置をずらします。見えているものを餌にして、向こうの進路を狭める」 「逆に、誰も動かなかったら」 「そのときは、こちらが先に少しだけ仕掛ける。怖さで止まるなら、止まる前に形を作るんです」 何度も書き換えた展開図は、きれいとは言えなかった。線は重なり、矢印は増え、消した跡まで残っている。それでも、そこには確かに二人の呼吸があった。 正彦はその紙を見つめ、低く笑う。 「負けた理由を言葉にされるのは、今でも少し腹が立つ」 「すみません」 「謝るな。だが、その代わりに分かった」 「何がです」 正彦は紙の上の線を指でなぞった。 「俺が最後に必要だったのは、強い脚だけじゃない。逃げ切るって決めることだ」 直樹はうなずいた。 「はい。だから明日は、決めた人が勝ちます」 正彦は一度だけ目を閉じ、静かに息を吐いた。眠気はまだ来ない。それでも、胸の奥に刺さっていた悔しさが、少しだけ別の形に変わっていく。 「明日までに、もっと詰めるか」 「ええ。相手の動きは、まだ増やせます」 正彦が紙を持ち上げた、その拍子に、端の一枚がするりと滑り落ちた。床に落ちたそれには、直樹が消しきれなかった線が、細く一本だけ残っている。正彦はそれを拾い上げ、暗い目で見つめた。 「……これは、まだ消すなよ」 直樹は小さく頷いた。 「はい。まだ使えます」

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