遠征初日の朝、競輪場の空気は地元とは匂いから違っていた。潮気のない乾いた風がバンクを撫で、観客席のざわめきもどこかよそよそしい。遼は整備台の前で工具を並べながら、三崎の背中を見た。地元を離れても、その姿勢は変わらない。だが変わらないことと、元に戻ることは違うのだと、今の遼にはわかっていた。 前検を終えた三崎は、以前のように過度な確認を繰り返さなかった。握り、乗り、降りる。その一つ一つが短く、澱みがない。相馬からは昨夜、地元から応援の短い連絡が届いていたし、七海も公式の記事で遠征初戦を小さく取り上げてくれていた。先輩整備士は見送り際に、勝ってこいとは言わず、迷って帰ってくるなだけを残した。その言葉が、妙にこの遠征に似合っていた。 初日特選の並びは厳しかった。地元勢の結束は強く、前で受ける選手も老獪で、三崎が楽に動ける形ではない。それでもレースが動き出すと、三崎は地元開催の最終日と同じように、いや、それ以上に自然に間合いを測っていた。ためらいが消えたわけではない。ただ、迷いが足首を掴む前に、身体が次の選択へ移っていく。遼は柵の外からその流れを見ながら、ようやく自分の分析が誰かを縛るためではなく、放すための手すりになれたのだと感じていた。 打鐘前、三崎は中団の外で一度だけ前を見た。その視線に、昔の傷をかばう硬さはもうなかった。行けるかではない。行くなら今だという、静かな決定だけがあった。外を踏み上げた車輪は遅れず、最終バックで先頭に迫る。会場のどよめきが波のように広がり、遼は思わず拳を握った。勝てる。ほんの一瞬、そう思った。 だが四コーナーの出口で、内をすくうように別線の若手が伸びた。三崎も食らいついたが、半輪、届かない。結果は二着。表彰台には届く。評価も上がる。遠征初戦としては十分すぎる成果だった。けれどゴール直後、遼の胸に最初に来たのは安堵でも悔しさでもなく、妙な既視感だった。地元で三着、遠征で二着。確かに前へ進んでいる。だが数字の並びが、まるで次を予告しているように見えたのである。 引き上げてきた三崎は、息を整えながら遼に車体を渡した。そして悔しそうに笑った。 また足りん。 はい、と遼は答えた。けれど今度のはいには、前のような終わりの響きがなかった。 そのとき、場内の大型画面に次開催の特集映像が流れた。地元競輪場の開設記念。招待選手の一覧に、三崎 恒一の名があった。遼は思わず画面を見上げ、三崎も同じように目を細める。地元を出て本物にすると言った走りが、こんなに早く元の場所へ返ってくるとは思わなかった。 三崎はタオルで汗を拭い、低く言った。 なるほどな。遠回りじゃなかった。 遼は整備記録の新しい頁をめくった。勝てないベテランという名を塗り替える物語は、外で完成するのだと思っていた。けれど本当に塗り替わるのは、たぶん戻ったときだ。別のバンクで得た二着は、地元での三着よりずっと大きく、そしてまだ結末ではない。数字だけでは書ききれない熱を抱えたまま、二人の次の舞台は、再びあの古びた競輪場へ向かっていた。
踏み出す輪郭、風は遅れない
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