エラベノベル堂

孤島綴り、沈黙の継ぎ目

全年齢

小説ID: cmnenc97j000301mnwniq38lk

3章 / 全10

三日目の会議から、原稿は読むものではなく、互いの顔色を測るための鏡に変わった。真緒が席に着くと、すでに配られていた新しい章には、あの温室の場面がまた現れていた。今度は町外れではなく、主人公の通っていた学校の裏手にある設定になっている。それでも、入口に吊された鈴と、濡れた土の匂いだけは変わらない。主人公はそこで誰かと言い争ったことになっていたが、肝心の相手の顔も年齢も曖昧なまま、会話の末尾だけが妙にくっきり残されていた。大丈夫、もう済んだことだ。前の章と同じ言葉だった。 その一文を目で追った瞬間、無口な青年の肩がぴくりと震えた。真緒は見逃さなかったが、あえて視線を外した。代わりに、向かいの年長の女性がカップを持つ指に力を入れすぎ、白くなっているのが見えた。誰も何も言わない。だが沈黙そのものが、ここでは発言より雄弁だった。 折口はいつものように、この場では他人の解釈を否定しないこと、と穏やかに念を押した。すると姿勢のいい中年の男が、解釈の問題ではなく事実関係の整理が必要だと言い出した。主人公の帰郷時期が章ごとに違う、持ち物も定まらない、これでは読者が混乱する。正論めいた口調だったが、その実、彼が消したがっているのは混乱ではなく痕跡なのだと真緒には思えた。よく笑う男は椅子にもたれ、混乱して困るのは書かれた人だけでしょう、と軽く言った。冗談の調子なのに、室内の空気が一段冷えた。 その午後、真緒は資料室で過去の広報誌をめくった。青玻寮では数年前、施設内で事故があり、一部区画が閉鎖されたという短い記述だけが見つかった。原因は設備老朽化。負傷者の有無は不明。あまりに整いすぎた文章だった。頁を閉じようとしたとき、貸出簿の古い欄に同じ名字が繰り返し現れているのに気づく。参加者ではない。職員名簿にも今はない名前だった。 夕食後、廊下の窓辺で爪を短く切りそろえた女性が一人で立っていた。真緒が隣に立つと、彼女は海ではなくガラスに映る自分の顔を見たまま、小説って便利ね、と言った。人のことでも自分のことでもないふりができるから。真緒が返事を探しているうちに、彼女は続けた。でも、同じ場所ばかり出てくるのは、忘れたい人間が何度もそこへ戻ってしまうからよ。そこで初めて、彼女は真緒のほうを見た。その目には警戒より先に、疲れがあった。 夜の創作会議では、次の担当を決めるだけのはずだった。だが原稿の修正案が机に並ぶと、それぞれが少しずつ違う温室を書き、少しずつ違う持ち物を主人公に握らせていることが明らかになった。鍵は閉ざされた場所を、時計は止まった時刻を、鈴は誰かを呼んだ合図を示すように見える。どれも比喩としては出来すぎていた。真緒は一枚ずつ読み比べながら、これが技巧の競い合いではなく、言える範囲で同じ出来事に触れようとする手つきなのだと感じた。 折口が、今日はここまでにしましょうと締めかけたとき、無口な青年が初めて口を開いた。低い声だった。順番を変えたら、わからなくなる。その一言に、全員の視線が集まる。青年は唇を結び、それ以上は何も言わなかった。だが真緒には、その言葉だけで十分だった。章の並びも、修正の前後も、誰かにとっては意味を持っている。記憶のずれではない。ずれさせられた順番があるのだ。 部屋へ戻った真緒は、原稿の束を膝に置いたまま長く動けなかった。書き手ごとの癖に見えていた食い違いは、視点の違いでは済まない。似た場所、似た言葉、似た沈黙が、まるで別々の口からこぼれた証言の断片みたいに机の上へ並び始めている。小説は進んでいるはずなのに、誰も未来を書いていない。ただ、過去の同じ一点の周囲を、少しずつ角度を変えて回り続けている。真緒はようやく確信した。この物語のずれは演出ではない。ここにいる誰かの記憶そのものが、まだ一つに重なっていないのだ。

3章 / 全10

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