翌朝、真緒は誰よりも早く会議室に入った。昨夜ほとんど眠れず、頭の奥だけが妙に冴えていた。机の上にはまだ何も置かれていない。窓の外では、海から上がった湿気が白くたなびき、森の輪郭を曖昧にしていた。あの温室も、見えないのではなく、見せないように隠されているだけなのかもしれないと真緒は思った。 やがて参加者が一人ずつ入ってくる。無口な青年は目を合わせず、爪を短く切りそろえた女性は椅子を引く音まで慎重だった。姿勢のいい中年の男だけがいつも通り背筋を伸ばし、原稿管理は私がしたほうがいい、と開口一番に言った。散らかると流れが読めなくなる。そう言いながら彼は、誰に頼まれたわけでもないのに前日分の原稿を自分の前に集めた。その手つきに、真緒は胸の内で小さく印をつけた。 新しい章は、これまででいちばん露骨だった。主人公は高台から温室を見下ろし、そこで失くした腕時計を探している。だが次の頁では、その時計は最初から壊れていて、針が止まった時刻が繰り返し書かれていた。六時十二分。別の修正案には、同じ場面で時計の代わりに鍵が草むらから見つかる。さらに余白には、誰かが鉛筆で小さく、鈴は鳴っていない、と書き添えていた。本文よりその一言のほうが、よほど切実に見えた。 真緒は全員の表情を見た。よく笑う男は面白がるふりを崩さないが、六時十二分という数字が出た瞬間だけ指先で机を二度叩いた。年長の女性は、鍵という語が読まれるたび口元を固くする。無口な青年は余白の書き込みを見たあと、息を止めるようにして目を閉じた。偶然にしては、反応が揃いすぎている。 会議はすぐに修正の話になった。時計は説明的すぎる、いや鍵のほうが露骨だ、温室そのものを消したほうが物語が締まる。意見はばらばらなのに、向かう先だけは一つだった。何かを整えるという名目で、中心から遠ざかろうとしている。真緒はしばらく黙っていたが、折口がまとめに入ろうとしたところで口を開いた。 この小説、書き足してるんじゃなくて、照らし合わせてますよね。 折口の手が止まった。真緒は机上の原稿を順番に指で押さえた。 章ごとに事実が違うのに、違い方が同じです。場所と持ち物と台詞だけが戻ってくる。しかも、誰かが前の章の細部を消すたび、別の誰かが少し形を変えて戻している。物語じゃなくて、言える範囲の証言みたいに。 沈黙が落ちた。海鳴りだけが窓の外で低く続く。最初に笑ったのは、よく笑う男だった。ただし声は乾いていた。考えすぎだよ、と言いながら、彼は真緒ではなく折口を見ていた。助けを求める視線だった。 そのとき、無口な青年が立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、全員の肩が跳ねる。青年は震える手で原稿の束を掴み、順番が違うんだ、と絞るように言った。これじゃ、先に隠した人の書き方になる。誰が何を見たかじゃなくて、誰が先に黙らせたかの順番になる。 姿勢のいい中年の男がすぐに、落ち着け、と低く制した。だがその声には落ち着きより焦りがあった。青年は男を見たまま、初めてはっきり敵意を宿した目をした。 あの日も、そう言った。大丈夫、もう済んだことだって。 その瞬間、部屋の空気が決定的に変わった。誰も動かないのに、何かだけが一歩前へ出た気がした。真緒は折口を見た。講師はいつもの穏やかな顔のまま、しかし原稿の端を押さえる指先にだけ、白い力を込めていた。ここで語られているのは施設の外の話ではない。真緒はようやくそこまで辿り着き、原稿の束を見下ろした。ばらばらの章は、互いを打ち消しているのではなく、まだ口にできない同じ一点を囲んでいた。
孤島綴り、沈黙の継ぎ目
全年齢小説ID: cmnenc97j000301mnwniq38lk
