エラベノベル堂

孤島綴り、沈黙の継ぎ目

全年齢

小説ID: cmnenc97j000301mnwniq38lk

5章 / 全10

会議が崩れたのは、その直後だった。誰かが席を立つ音、紙が落ちる音、湯呑みの触れ合うかすかな震え。それだけで十分だった。折口が静かに休憩を告げても、もう誰も従順な参加者の顔には戻れない。真緒は散らばった原稿を拾い集めながら、あえて誰にも声をかけず、印字の時刻と修正履歴の並びだけを確かめた。施設の共有端末は、改稿のたび自動で保存日時を残す。講義では便利な機能だと説明されたその記録が、今は薄い証拠の列に見えた。 見ていくうちに、ひとつの癖が浮かび上がった。温室が最初に現れる章の直前だけ、必ず提出順が入れ替わっている。しかも差し替えられた原稿は、どれも細部を曖昧にする方向へ直されていた。六時十二分は夕方ごろに、鍵は小さな金具に、鈴の音は風の気配に。だが消された印は、別の章で必ず少し形を変えて戻る。隠す手と、置き直す手がある。その二つが、原稿の上で何度も争っていた。 夕方、資料棚の脇で真緒に声をかけたのは、爪を短く切りそろえた女性だった。彼女は真緒の手元の紙束を一瞥し、低く言った。たぶん、あの子は直接は書けない。真緒が問い返す前に、彼女は続けた。未成年だったから、当時の記録も面談も、ぜんぶ大人の言葉に置き換えられたの。自分で説明しても、取り乱しているで片づけられる。だから小説の中で順番を戻してる。 あの子、というのが無口な青年だと真緒はすぐにわかった。彼が執拗に守ろうとしていたのは整合性ではない。出来事の発生順だったのだ。誰が先にその場にいたか。誰が何を聞き、誰が済んだことにしたか。その順番が入れ替わるだけで、責任の向きは簡単に変わる。 夜、真緒は共有端末の保存一覧を最後まで追った。最も古い下書きの作成者欄には青年の名があり、その直後、管理者権限で別名の上書きが入っていた。今は職員名簿にない名字。広報誌の貸出簿で見た名と同じだった。さらに、その修正版の後から、中年の男のアカウントで細部の統一が繰り返されている。真緒の背中に冷たいものが走った。彼は参加者としてここにいるが、当時から施設に出入りしていたのだ。 再開された会議で、真緒は原稿を順に並べ替えた。提出順ではなく、最初の保存時刻順に。中年の男が顔色を変え、何をしていると言った。真緒は答えず、青年の最初の章を開く。そこには今の版にはない一文が残っていた。鈴は鳴らなかった。鳴らす前に、誰かが手を押さえたから。比喩めいたその一行だけで、部屋の空気はひび割れた。 青年はうつむいたまま、やっと言った。落ちたんじゃない。閉じ込められたんだ。ふざけてじゃない、黙らせるために。すぐ開ければよかったのに、外にいた人が、騒ぐなって。もう済んだことにするからって。言葉は途切れ途切れだったが、そのたびに他の章の断片が胸の中でつながっていく。止まった時計、戻らない鍵、鳴らなかった鈴。どれも、助けを呼べなかった数分を指していた。 折口は何も言わなかった。年長の女性は目を閉じ、よく笑う男は初めて笑わなかった。中年の男だけが、事故だったと絞り出したが、その声は自分に言い聞かせるほど弱かった。真緒はようやく理解した。矛盾は煙幕ではない。直接語る資格も、聞いてもらえる立場も奪われた者が、物語の内側に打ち込んだ杭だったのだ。どれだけ上から塗り直されても、消えきらないように。海鳴りの向こうで、見えない温室のガラスが今も冷たく光っている気がした。

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