エラベノベル堂

孤島綴り、沈黙の継ぎ目

全年齢

小説ID: cmnenc97j000301mnwniq38lk

6章 / 全10

その夜、青玻寮は消灯時刻を過ぎても静まり返らなかった。足音を忍ばせる気配や、遠くで開閉する扉の音が、建物全体の神経を細く張らせている。真緒は自室で原稿を広げ、保存時刻を書き出した紙と照らし合わせた。章は六つ、修正は十七回。その並びを追うほど、一冊の小説ではなく、途切れた証言録を綴じ合わせている感覚が強くなる。 鍵は閉じ込められた扉の比喩ではない。実際に足りなかった時間だ。時計は止まった時刻そのものではなく、誰かが止めてしまった判断を示している。鈴は助けを呼ぶ合図であり、鳴らなかったこと自体が出来事の中心だった。真緒はそこまで整理して、最後に残る違和感に気づいた。誰かが隠しただけなら、ここまで執拗に順番をいじる必要はない。順番が変わると困る人間が、今もこの場にいるからだ。 翌朝の会議で、真緒は最初から原稿を配り直した。提出順でも担当順でもなく、端末に残った初稿の作成順に。折口が止めるより先に、真緒は静かに言った。 この並びだと、誰が最初にその場にいたかが変わります。事故かどうかも。 中年の男の表情が固まった。年長の女性は膝の上で手を組み、爪を短く切りそろえた女性は息を浅くした。無口な青年だけが、初めて真緒の手元をまっすぐ見ていた。 最初の章では、主人公は高台から温室を見ている。次の章で、温室の中にいたことになる。さらに修正後は、現場に着いたのは騒ぎの後になっている。真緒は一枚ずつ机に置いた。最初にいた人を後から来た人に書き換えてる。しかも、そのたびに大丈夫、もう済んだことだって台詞が入る。言い訳じゃなくて、上書きの合図みたいに。 折口が低い声で、やめなさい、と言った。講師としての制止に聞こえたが、そのひとことで真緒は確信した。この場でいちばん長く順番を管理してきたのは彼だ。 青年が立ち上がった。今度は震えていなかった。先生もいた、と彼は言った。あの日、外で。開けるなって言ったの、あの人だけじゃない。 視線が一斉に折口へ向く。折口はしばらく黙り、やがて原稿の束を見下ろしたまま答えた。混乱していたんです、と。あれ以上騒げば、施設ごと終わると思った。誰か一人に責任を集めれば収まると、そう考えた。 その告白は弁明にも懺悔にもなりきれず、会議室の中央に重く落ちた。中年の男が何か言い返そうとしたが、声にならない。年長の女性は目を伏せたまま、済んだことにしたかったのは私たち全員ね、と掠れた声で言った。誰かを守るためではなく、自分があの数分を見ていた事実から目を背けるために。 真緒は原稿の最後の空白頁を見た。ここに必要なのは、犯人探しの決着ではないのだと思った。誰が何をしたかだけでなく、誰が見て、黙り、言葉を取り上げたか。その全部を書かなければ、この小説はまた誰かの順番で塗り替えられる。海の向こうから朝の光が差し込み、白い机の上にばらばらの章を同じ明るさで照らしていた。初めてその光景が、始まりではなく、隠されてきたものの輪郭に見えた。

6章 / 全10

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