エラベノベル堂

孤島綴り、沈黙の継ぎ目

全年齢

小説ID: cmnenc97j000301mnwniq38lk

6章 / 全10

防波堤の上は、夜の名残を引きずった風がまだ冷たかった。俺は手すりに背を預け、黒い海を見下ろしていた。潮の匂いが肺の奥まで入り込み、眠気を無理やり押し流していく。 「……見たんだ」 自分でも驚くほど、声はかすれていた。誰に聞かせるでもない独り言だったのに、胸の奥で何かがほどける。保管室で掘り当てた空白のページ、その前後に並んでいた不自然な記述。それらが今、ひどく離れた場所の記憶を引き寄せていた。 「前にさ、誰かがいた」 断片だった。顔ははっきりしない。ただ、行動だけが妙に鮮明だ。波音に紛れるように、ある人物が立ち止まり、振り返り、それから何かを隠すみたいに手を動かした。止めるでもなく、逃げるでもなく、ただ一瞬だけ、ためらった。その一瞬が、妙に引っかかる。 「違う、って言い切れない」 口にした途端、背筋に冷たいものが走った。あの夜の証言は、ひとつひとつはもっともらしい。けれど、今思い出した行動が本当なら、誰かの説明は根本から揺らぐ。俺が見たのは犯人の顔じゃない。顔でなくてもいい。あの人物があの夜に確かに存在していたという事実だけで、これまで信じられていた流れをひっくり返すには、十分かもしれなかった。 「お前、何を思い出した」 背後の声に振り向くと、別の受刑者が数歩離れた場所に立っていた。いつからいたのかはわからない。眠たげな目なのに、その視線だけは鋭い。 「……大したことじゃない」 「大したことない顔じゃねえだろ」 俺は笑おうとして、失敗した。記憶はまだ曖昧だ。輪郭をつかめば崩れそうで、強く握れない。それでも、今までの証言が全部正しいとは思えなくなっていた。 「これで、話は変わるかもしれない」 「変わる?」 「誰かの言い分が、ひっくり返る」 その言葉に、相手の表情が強張る。信用できない。そう顔に書いてあった。俺だって同じだ。こんな曖昧な記憶を振りかざして、全員を納得させられるはずがない。なのに、口を閉じることもできなかった。 「本当に見たのか」 「見た、と思う。いや……見た気がする、が正しいか」 「ふざけるな」 低い声が、風より先に刺さった。けれど俺は引かなかった。引いたら、保管室で見つけた空白も、ここで浮かんだ行動も、全部なかったことになる。 「ふざけてない。だからこそ、確かめるしかないんだ」 海が、すぐ足元で暗く鳴った。受刑者は答えず、しばらく俺を見ていた。その沈黙が、信じないという返事そのものだった。俺は防波堤の先に視線を戻す。曖昧な記憶はまだ霧のままなのに、そこだけ妙に熱を持っていた。次に誰へ話すべきか、そのことだけが、朝の近い空の下で重く残った。

6章 / 全10

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