真緒が最後の空白頁を見つめているあいだ、会議室の誰も次の言葉を急がなかった。沈黙は重かったが、もう以前のように何かを覆い隠すための布ではなかった。布の下にあった形が、ようやく全員の目に触れ始めている。その痛みを、それぞれが別々の場所で受け止めているようだった。 真緒は散らばった原稿をもう一度並べた。初稿、修正版、差し替え。印字された時刻の列を追うと、青年の書いた章だけが、いつも出来事の核心にもっとも近い場所から始まっていた。温室の外ではなく内側。事故のあとではなく、その直前。鈴が鳴らなかった理由。扉が開かなかった数分。そこへ後から加えられた修正は、必ず視点を一歩外へずらし、責任の輪郭をぼかしている。まるで誰かが、見ていたことそのものをなかったことにしたがっているように。 つまり、と真緒は言った。これは矛盾じゃない。消された順番を戻そうとしてたんですね。 青年は小さくうなずいた。目は赤かったが、もう逸らさなかった。 直接書くと、また違うって言われるから。 その声に、爪を短く切りそろえた女性が唇を噛んだ。年長の女性は両手を握り合わせたまま、あのとき私は止めなかった、と呟く。よく笑う男は椅子にもたれて天井を見たが、その軽薄さはもうどこにもなく、ただ疲れた顔の若い男がいるだけだった。 折口はなおも机の上の一点を見つめていた。講師として整えてきた文章、施設として処理してきた記録、そのどちらも今は頼りにならないのだと、彼自身がいちばんわかっている顔だった。中年の男が低く、悪意じゃなかった、と言った。だがその言葉は誰にも届かなかった。悪意ではなかったことが、何も軽くしない場面がある。 真緒は青年の初稿の余白に残った、あの短い一文を見返した。鈴は鳴らなかった。鳴らす前に、誰かが手を押さえたから。比喩の形をしているのに、そこにしか置けなかった真実がある。小説の中でしか通れない細い道を、この人はずっと掘っていたのだ。 会議室の空気は張り詰めたままだったが、以前とは種類が違った。もう誰が何を知っているかを探り合う空気ではない。これ以上、どこまで書くのかを量る空気だった。真緒は最後の頁に手を置いた。この共同創作は、ようやく物語になる前の場所へ戻ってきたのかもしれない。誰かの言葉が正しく、誰かの言葉が間違いなのではない。言えなかった順番ごと、並べ直さなければ届かない真相がある。 窓の外では、朝の海が静かに光っていた。閉ざされた島の中で書かれてきたはずの原稿が、今だけは外へ通じる細い航路のように見えた。真緒は息を整え、白紙に最初の一文を書く準備をした。ここから先は、誰かにとって都合のいい版ではなく、全員の沈黙が残した傷跡の形で進まなければならない。そう思った瞬間、部屋の隅でかすかに椅子が鳴り、張りつめた空気がさらに一段、鋭くなった。
孤島綴り、沈黙の継ぎ目
全年齢小説ID: cmnenc97j000301mnwniq38lk
