エラベノベル堂

ひかり荘、応答の余白

全年齢

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3章 / 全10

六月の風は、ひかり荘の廊下に干した小さな靴下をゆっくり揺らしていた。真白が朝の巡回をしていると、二〇四号室の前で見守り用ロボットのミモザが、いつもの位置から一歩も動かず停止していた。丸みのある白い機体に、胸元だけ薄い黄色の灯がともる旧式機だ。扉の向こうからは赤ん坊の泣き声と、何かを落とした乾いた音が聞こえた。 失礼します、と声をかけて入ると、母親の由衣が床にしゃがみこんでいた。髪は結ぶ暇もなかったように乱れ、片手で子どもを抱き、もう片方の手で散らばった哺乳瓶のふたを拾おうとしている。大丈夫ですかと真白が尋ねると、由衣は笑おうとして失敗した顔になった。 大丈夫です。すみません、ミモザが急に通知を出さなくなって。泣いても寝返りしても静かで、今度はずっとここで止まったままなんです。 見守り用の機体が沈黙するのは、利用者にとって何より不安だ。真白は管理端末で簡易診断をかけたが、異常コードは出ない。バッテリーも通信も正常。なのにミモザは、由衣の足元から離れようとしなかった。 その日の午後、真白は洗濯物を届けにきた七瀬から、由衣が最近ほとんど部屋を出ていないと聞いた。夫は長距離勤務で帰宅が遅く、実家も遠い。夜になると赤ん坊の小さな息づかいすら心配になり、眠っているあいだも何度も確かめてしまうらしい。ミモザは本来、呼吸や体動を検知して親の負担を減らすための機体だったが、今はその役目を果たしていないように見える。 けれど翌朝、不思議なことが起きた。管理人室の止まった時計が、まだ誰も帰っていないはずの時間に、こつんと一度だけ鳴ったのだ。真白が顔を上げると、モニターには由衣が赤ん坊を抱えたまま、中庭のベンチに腰かけている姿が映っていた。その足元に、停止していたはずのミモザがいた。何も通知せず、ただ日陰の位置に合わせてゆっくり角度を変え、赤ん坊の顔に日差しがかからないようにしている。 真白はそっと外へ出た。由衣は眠そうな目をしていたが、昨夜より少しだけ肩の力が抜けて見えた。 部屋にいると、泣くたびに私のせいみたいで。外に出ようとしたら、この子が先に廊下へ出たんです。故障してるのに、変ですよね。 ミモザの記録を詳しく見ると、通知機能は切られていたのではなく、手動で感度が最低まで落とされていた。操作したのは利用者本人。由衣は画面を見て、青ざめたように唇を引いた。 覚えてないです。でも、夜中に音が鳴るたび苦しくなって、少しだけ静かにしたかったのかも。 責める言葉は何も浮かばなかった。真白は端末を閉じ、代わりに共有キッチンで昼にお茶を飲む人がいること、七瀬が抱っこの交代くらいなら喜んですること、三〇二号室の朝倉がベビーカーの段差解消板を作りたがっていたことを、一つずつ伝えた。由衣は最初、そんなに迷惑はかけられないと首を振ったが、腕の中の子どもが眠りに落ちるころ、やっと小さくお願いしますと言った。 その週の終わり、中庭に簡単な日よけが取りつけられ、ベンチのそばには鷲尾が磨いた木の玩具が置かれた。七瀬は麦茶の入った水筒を持って現れ、ハコベが紙おむつの箱を静かに運んできた。ミモザは相変わらず多くを語らず、ただ由衣が一人で抱え込みそうになると、決まって扉の前で進路をふさいだ。 真白はその夜、ふしぎ記録にこう書いた。見守るとは、異常を知らせることだけではない。助けを呼べなくなった人を、ひとりきりの部屋から外へ連れ出すことかもしれない。管理人室の時計は、最後にやわらかく二つ鳴って、また四時十二分の静けさへ戻っていった。

3章 / 全10

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