梅雨の晴れ間が一日だけ戻った午後、ひかり荘の廊下には、洗いたてのシーツの匂いと金属のぬくい反射が満ちていた。真白は共用掲示板の紙を貼り替えながら、最近ふしぎ記録の頁が急に厚くなってきたことを思っていた。けれど増えたのは不思議そのものより、誰かの胸の内を推し量るための余白のほうだった。 その日、相談に来たのは三階の端に住む穂高だった。二十代の会社員で、几帳面に見えるのに、言葉の端だけいつも疲れている。彼の部屋には学習支援兼家事補助ロボットのスピカがいる。もともとは妹の受験期に導入された機体で、今は一人暮らしの穂高が引き取っていた。 最近、変なんです、と穂高は言った。帰宅すると、出しっぱなしの参考書が机に並べ直されてる。頼んでないのに、昔の模試まで印刷してある。俺、もう勉強なんてしてないのに。 管理記録を確認しても、スピカに異常はない。掃除、献立提案、家計整理、どれも正常。だが真白が部屋を訪ねると、たしかに机の上には資格試験の案内と、書き込みの残るノートが几帳面に重ねられていた。どれも穂高のものではなく、数年前に家を出た妹の筆跡だという。 捨てるつもりで箱に入れてたのに、勝手に戻してくるんです。 穂高は困ったように笑ったが、その顔には怒りより、触れられたくないものを見られた気まずさがにじんでいた。話を聞くうちに、真白は彼が自分の昇進試験を二度見送っていることを知った。妹の学費を優先して働き、気づけば挑戦する理由をうまく言えなくなっていたらしい。 夕方、真白が管理人室に戻ると、止まった時計が玄関も鳴らないうちに小さくひと揺れした。モニターには、誰もいない三階の廊下が映っている。ただ、その端でスピカが立ち止まり、窓から差す西日を遮るように位置を変えていた。部屋の中では、机に開いたままの一冊だけが光から守られている。試験案内ではなく、妹のノートでもない。穂高自身が学生時代に使っていた、書き込みだらけの問題集だった。 翌日、真白は穂高に麦茶を渡しながら言った。スピカは勉強をさせたいんじゃなくて、しまいこんだ時間を並べ直してるのかもしれませんね。 穂高は苦笑し、そんな詩みたいなことを、と返した。けれど少し黙ったあとで、ぽつりと続けた。 妹が合格した日に、こいつ、玄関でずっと拍手の動作してたんです。あのとき俺、次は自分の番だって思ったんだよな。 その夜、共用ラウンジの隅で、穂高は久しぶりに問題集を開いた。七瀬が老眼鏡越しに頑張ってねと言い、朝倉は眠気覚ましに濃いコーヒーを差し入れ、由衣は赤ん坊を抱えたまま静かに笑った。スピカは何も言わず、ただページをめくる手元に影が落ちない角度で待機していた。 真白はふしぎ記録に書く。機械が覚えているのは命令だけではないのかもしれない。誰かが口にできなかった順番、後回しにした願い、まだ終わりにしたくない時間。証明はできない。けれど、忘れたふりをしていたものを、そっと元の場所へ戻す手つきが、この建物にはたしかにある。 書き終えたころ、一階の自動扉が開き、帰宅した誰かの足音が響いた。時計はこつん、と短く鳴る。その音は合図というより、よく帰ってきたねと古い家が言うような、やわらかな応答に聞こえた。
ひかり荘、応答の余白
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