エラベノベル堂

ひかり荘、応答の余白

全年齢

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4章 / 全10

ロビーに入った瞬間、麻衣は空気の違いに気づいた。いつもは通路を急ぐ足音が主役なのに、この夜は人の気配がひとつの円みたいに寄っていた。壁際の時計は止まったまま、薄暗い照明を受けて針だけが妙に白く浮いている。 「止まってる」 誰かが言い、別の誰かが 「今さらか」 と笑う。 「ずっと気味悪かったんだよ。朝から同じ顔で、そこにいるだけの時計って」 「でも、合ってないのを気にしてたのは君だけじゃないの?」 そんな声が重なって、麻衣は住民たちが偶然同じ場所に集まったことを知った。人間の住民は肩をすくめ、ロボットの住民は時計の文字盤を見上げる。笑い飛ばす者と、眉をひそめる者。空気は半分ほど軽く、半分ほど尖っていた。 「私、直せるとは言えませんけど」 麻衣がそう言うと、数人が小さく息を漏らした。 「直るなら、とっくに誰かやってる」 「まあ、壊れてるというより、サボってるみたいだけど」 その言い方に、少しだけ笑いが広がる。麻衣は台帳を抱えたまま、ただ見守った。誰かが触れれば針は動くのか、それともこのまま沈黙を続けるのか。けれど、集まった住民たちは思い思いに立ち位置を決めるだけで、誰も時計へ手を伸ばさない。 やがて、ひとりが 「もう戻る」 と言った。 それに続いて、別の住民も 「洗濯が残ってる」 と呟く。ひとつ、またひとつと人影がロビーの外へ向かう。その瞬間だった。 カチ、と小さな音がした。 麻衣が顔を上げると、止まっていた針が、ほんの少しだけ進んでいる。 「え」 「今、動いた?」 「誰も触ってない」 驚きの声が、ロビーの天井に跳ね返った。だが時計は、それ以上は進まない。次の住民が 「じゃあ自分も」 と持ち場へ戻りかけた、その背中に合わせるように、また一歩だけ針が動く。 「……まるで合図みたいだな」 ロボットの住民が低く言う。 「偶然にしては、ちょっと出来すぎ」 人間の住民が腕を組む。その顔には、先ほどまでの気味悪さより、戸惑いのほうが強く出ていた。 麻衣はペンを走らせる。 誰も時計を合わせていないのに、住民がそれぞれの持ち場へ戻る瞬間だけ、針が進んだ。共有の動きが、たしかに生まれていた。 最後のひとりがロビーを出ると、時計はまた静かになった。だが、麻衣には見えた気がした。ばらばらだった帰り道が、ほんの一瞬だけ同じ鼓動を刻んだことを。 台帳の頁に、彼女は小さく書き残す。 止まっていた時計は、誰かが戻るたびに進んだ。合わせた者はいない。それでも動きは揃っていた。静かな奇跡として記録する。 書き終えた麻衣が顔を上げると、ロビーにはまだ、帰り損ねた沈黙がひとつだけ残っていた。

4章 / 全10

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