エラベノベル堂

ひかり荘、応答の余白

全年齢

小説ID: cmnenclbf000601mnr621y6lz

5章 / 全10

七月の終わり、ひかり荘の掲示板に白い封筒が貼り出されたのは、昼の熱気が廊下にこもる時間だった。運営会社からの通知。設備安全基準の再確認に伴い、全館の大規模点検を実施すること、旧式機体は順次更新対象とすること、管理人は住民への周知と協力を徹底すること。整った文面は穏やかだったが、読み進めるほど温度が消えていく。最後の一文には、不可解な事象の報告が複数確認されたため、とあった。 真白の指先は、その言葉の上で止まった。不可解な事象。自分の机の引き出しにしまってある、ふしぎ記録のことまで見透かされたようで、胸の奥がひやりとした。 夕方になるころには、住民たちの空気は目に見えて割れていた。安全のためなら新しい機体に替えるべきだという声がある。古い機体は部品も減っているし、子どものいる家庭では不安だという意見ももっともだった。一方で、鷲尾は杖で床を軽く突き、トワを機械の都合で他人みたいに入れ替えられてたまるかと低く言った。由衣はミモザの丸い背を見つめながら、故障なら直してほしい、でもこの子がいなくなるのは違う気がすると唇を結んだ。便利と安心、思い出と愛着。そのどちらも嘘ではないからこそ、言葉はすぐに棘を持った。 追い打ちをかけたのは、本社から来た担当者の一言だった。管理人室で書類を確認した若い男は、真白のノートの存在を知ると、困ったように眉を下げた。 感傷は悪くありませんが、異常の見逃しは困ります。住民の不安を物語に変えないでください。 その夜、真白は机に向かったまま、しばらく何も書けなかった。止まった時計も静まり返り、管理人室は妙に広かった。ふしぎ記録は根拠のない思いつきなのかもしれない。自分が勝手に意味を結び、みんなを惑わせてきただけかもしれない。そう思いかけたとき、廊下の向こうでユキマルの走行音がして、すぐに止んだ。 外へ出ると、共用ラウンジに何人かが集まっていた。険しい顔のまま、誰も先に口を開かない。真白は逃げるように引き返しかけて、けれど思い直した。ノートを抱え、その場の真ん中に立つ。 私は、奇跡だと言いたいわけじゃありません。 自分でも驚くほど声ははっきりしていた。 時計が帰宅のときだけ動いたこと。ユキマルが泣いていた子に花を運んだこと。トワが壊れた小鳥の前で待ち続けたこと。ハコベが古いスケッチを届けたこと。ミモザが由衣さんを外へ連れ出したこと。スピカがしまわれた問題集を戻したこと。全部、異常だと言えばそれまでです。でも私は、それが誰かの願いに触れて返ってきた応答に見えました。 誰も動かなかった。だが真白は、ひとつひとつ、これまでの出来事を語り直した。証拠ではなく、そのとき誰が何を失いかけ、何を受け取ったのかを。鷲尾の沈黙、朝倉の諦め、由衣の息苦しさ、穂高の先送り。話すほど、ラウンジの空気は少しずつ変わっていく。機械の性能の話ではなく、ここで一緒に暮らしてきた時間の重さが、ようやく同じ場所に置かれた気がした。 最後に真白はノートを閉じた。 安全は大事です。点検も必要です。でも、全部を異常として消してしまったら、ここで確かに交わされたものまで失う気がします。 しんとした沈黙の中で、管理人室の時計がこつん、と一度だけ鳴った。誰かが帰ってきた音はしない。それでもその小さな響きに、何人かが同時に顔を上げた。疑いはまだ消えていない。けれど断絶だけでもなくなっていた。点検の日まで、あと三日。ひかり荘は、もう一度ばらばらになる寸前で、かすかな同じ方角を見始めていた。

5章 / 全10

TOPへ