エラベノベル堂

ひかり荘、応答の余白

全年齢

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5章 / 全10

麻衣がその扉を押し上げたとき、ひやりとした空気が頬をかすめた。普段は固く閉ざされている屋上へ続く階段の先に、かすかな金属臭が漂っている。さっき聞いた異音は、どうやら気のせいではなかったらしい。 「誰か、上にいるのかな……」 独り言を落としながら、一段ずつ慎重に上がる。踊り場の先で、扉は半開きのまま揺れていた。麻衣が隙間から覗き込むと、そこには古い通信機の残骸があった。ケースは外れ、配線は途中で切れ、受信装置の表示は暗い。ただ、埃の積もり方だけが不自然に薄く、誰かが最近まで触れていた気配を残している。 「壊れてる、というより……」 麻衣は膝をつき、散らばった部品を見つめた。何かを受け取った痕跡だけが、そこにきちんと残っている。けれど、何を受信したのかまでは、まだわからない。 背後で、遅れて足音がした。 「管理人さん?」 振り返ると、そこにいた住民は少し言いにくそうな顔をしていた。麻衣が何かを尋ねるより先に、その人は視線を逸らし、ぽつりと零す。 「実は、ここで……言えてなかったことがあって」 「え」 「大した話じゃないんだけど。ずっと、隣にいるのに話せなかったこととか。誰かに聞かれたら困るって思って、飲み込んでたこととか」 言葉は途切れ途切れだった。けれど、階段の狭い空気の中では、その一つひとつが妙にはっきり響いた。 「私も、似たようなことを考えてました」 麻衣は台帳を胸に抱え直す。 「記録しているだけで、近づきすぎてるんじゃないかって、少し迷ったり」 その言葉に、住民はわずかに目を見開いた。 「管理人さんでも、そういうのあるんだ」 「あります。むしろ、いっぱい」 ふっと、短い息が漏れる。笑いかけたのか、ため息だったのか、どちらともつかない音だった。 そこへ、さらに別の気配が近づいてくる。今度はひとりではない。足音の間に、車輪の回る低い響きも混じっていた。 「あ、そこにいたんですか」 現れた住民たちは、互いの顔を見るなり、なぜか口ごもった。誰も最初の一言を決めかねている。その沈黙が、かえって長く抱えていた重みを伝えてくる。 「ここ、まだ使えると思ってたんですが」 一人が通信機の残骸を見て言う。 「使えるかどうかより、誰にも見せたくなかったんです」 別の一人が、少し低い声で返した。 麻衣は黙って聞いていた。屋上へ続く狭い階段の前で、住民たちが少しずつ、自分の中にしまっていたものを取り出し始めている。大げさな告白ではない。けれど、言葉にしなければ沈んだままだった思いが、ようやく表へ出てくる。 「話せなかったこと、ですか」 麻衣は小さく繰り返した。 その瞬間、さっきよりも強く、胸の奥で何かが鳴った気がした。奇跡の前には、きっとこんな静かな震えがある。まだ形にならない沈黙が、誰かの口を借りて少しずつほどけていく、その手前の気配。 麻衣は台帳を開き、震えのような文字で書き始める。 閉ざされていた扉の先で、古い通信機の痕跡を見つけた。住民たちは、長く言えなかったことを少しずつ口にした。話せなかったことは、奇跡の前ぶれかもしれない。 書き終えた彼女の耳に、またかすかな風が触れた。

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