点検前日、ひかり荘には妙な静けさがあった。嵐の前というより、誰かが大切な話を切り出す直前の沈黙に似ていた。真白は朝から各戸を回り、点検時間の最終確認を伝えていたが、住民たちの返事はどれも短い。その奥に、迷いと身構えが重なっているのがわかった。 一階に戻ると、運営会社の作業員が先行搬入した更新用機体の箱が、玄関脇に積まれていた。白く無機質な梱包材には機種番号だけが印字され、名前も癖もまだ何もない。真白はその前で足を止めた。新しい機体が悪いわけではない。むしろ性能は高く、事故の可能性も低いのだろう。けれど箱の整然とした白さは、この建物の暮らしからこぼれた温度まで均してしまいそうで、胸が詰まった。 昼すぎ、共用ラウンジで七瀬が言った。 ちゃんと怖いのよ、私だって。古いものはいつか壊れるもの。でもね、壊れる前に手放すのも、少し違うでしょう。 その言葉をきっかけに、ぽつりぽつりと声が続いた。由衣は、ミモザがいなかったら自分は一度も外に出られなかった気がすると言った。穂高は、スピカのしたことを説明しろと言われてもできないが、あれで自分が助かったのは本当だと認めた。朝倉は黙っていたが、やがて低く、建物って安全性だけで残るんじゃないですよね、と漏らした。 そこへ本社の担当者が現れ、明日の立ち会い手順を事務的に説明し始めた。すると鷲尾が途中で遮った。 点検は受ける。だが、最初から別れ話みたいに進めるな。 空気が張りつめる。担当者は言い返しかけて、周囲の顔を見て黙った。真白は息を吸い、机の上にふしぎ記録を置いた。 これは報告書にはなりません。でも、ここで何が起きてきたかの記録ではあります。 ページを開き、一つずつ読み上げる。花を運ぶユキマル。帰宅のたび鳴る時計。待ち続けたトワ。届け直されたスケッチ。扉の外へ導くミモザ。戻された問題集。読み上げるうちに、記録は不思議話ではなく、住民それぞれが誰にも見せなかった欠けた場所の記録になっていった。 そのときだった。管理人室の古い時計が、こつん、と鳴った。続けてもう一度。玄関は開いていない。けれどモニターには、住民たちがラウンジへ向かって歩いてくる姿が次々映っていた。呼びかけていないはずの人まで、仕事帰りや買い物の途中で自然に足を止め、まるで同じ音を聞いたみたいに集まってくる。 担当者が怪訝そうに時計を見る横で、ユキマルが静かにラウンジの中央へ進み、どこから拾ってきたのか小さな白い花を真白の足元に置いた。誰かが吹き出すように笑い、その笑いはすぐに別の誰かへ移った。張りつめていたものが、そこでようやくひび割れた。 真白は思った。明日、何かが守られる保証はまだない。それでももう、ここにあるものを感傷とだけ呼ばせたくなかった。人とロボットが長く同じ廊下を行き来して、言葉にできないまま手渡してきたもの。それを失うかどうかの話なのだと、今なら皆で言える気がした。 外では夕立の気配が膨らみ、自動扉のガラスに暗い雲が映っていた。ひかり荘は、明日の審判を前にして、ようやくひとつの家みたいな息をし始めていた。
ひかり荘、応答の余白
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