台帳をめくる音が、いつもよりやけに大きく聞こえた。談話室の空気は昼の光を受けているのに、どこか冷えている。麻衣の机を囲むように、住民たちがばらけたまま立っていた。さっきまで誰かが指でなぞっていたのだろう、台帳の頁には奇跡の記録がいくつも並んでいる。 「本当に、こんなふうに書いたのか」 低い声が落ちた。人間の住民が眉を寄せ、ページを覗き込む。その隣で、ロボットの住民の一人が腕を組む仕草をしていた。 「紙片が揃った。時計が進んだ。都合よく見える」 「都合よく?」 別の住民が言い返しかけて、口をつぐむ。空気が、ひとつ冷たくなった。 「誇張したつもりはありません」 麻衣は静かに言った。だが、すぐに言い足す。 「けれど、そう見えるなら、見え方も含めて書き直します」 その言葉に、ロボットの住民の視線が鋭くなった。 「書き直す、ですか。つまり、観察結果を整えるってことですか。管理しやすい形に」 「違います」 麻衣は即答しなかった。否定の速さより、誰の顔も傷つけない速さを選ぶみたいに、ゆっくり息を吸う。 「誰の側にも立たないメモとして、読み上げます」 ページの角を押さえ、麻衣は目を落とした。 「廊下で紙片が整列した。見ていた者がいた。笑った者も、黙った者もいた。誰かが何かを仕掛けた証拠はない。だが、驚いたあとに立ち止まった人がいた。気味悪さを口にした人がいた。触れずに見送った人もいた」 言葉を重ねるたび、張り詰めていた輪郭が少しだけ丸くなる。 「食堂では、同じ気遣いが同じ時に差し出された。郵便受けの前では、名前のずれが誤解を広げた。時計の前では、誰も合わせていないのに、戻る足に応じて針が動いた」 「つまり、奇跡ってやつを信じろって?」 誰かが吐き捨てるように言った。 「信じるかどうかは、まだ決めなくていいです」 麻衣は顔を上げる。 「でも、誇張した記録ではありません。起きたことと、そのときの温度を、そのまま残しただけです」 ロボットの住民が、少しだけ目を細めた。 「温度、ね」 「ええ。冷たくなった空気も含めて」 一拍遅れて、誰かが小さく息を吐いた。笑いではない。けれど、刺さっていた棘が一本抜けたような音だった。 麻衣は台帳を閉じず、そのまま膝に置く。 「管理するための記録なら、私はこんなふうに読みません。誰かを疑うための欄にも、誰かを守るための欄にも、最初から分けていないので」 その言葉に、談話室の沈黙が少し変わる。冷え切っていたのが、ただの硬さへ、硬さが、考える余地へとほどけていく。 「……じゃあ、これは何なんだ」 人間の住民がつぶやく。 麻衣は台帳の頁をそっと撫でた。 「まだ、誰にも見え方を決められない記録です」 言い切った瞬間、窓の外で風が鳴った。誰もそれ以上は口を挟まない。けれど、さっきまでの敵意だけが、確かに薄れていた。麻衣はその変化を、次の頁の余白に静かに書き留めた。
ひかり荘、応答の余白
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