点検当日の朝、ひかり荘はいつもより早く目を覚ました。廊下にはまだ昨夜の雨の名残が薄く冷えていて、管理人室の窓を開けると、濡れた土と金属の匂いが一緒に入ってきた。真白は制服の襟を正し、机の上にふしぎ記録と通常の点検書類を並べた。どちらも同じ紙なのに、重さだけが違って感じられる。 九時ちょうど、運営会社の点検班が到着した。担当者に加えて、整備主任らしい年配の女性もいる。無駄のない動きで端末を開き、機体番号と設備番号を照合していく姿は、頼もしさと冷たさを同時にまとっていた。住民たちはラウンジや廊下に散り、必要以上に近づかず、それでも目だけは作業の先を追っていた。 最初に検査されたのはユキマルだった。診断用ケーブルが接続され、認識灯が何度か明滅する。主任はログを見て、小さく首をひねった。 学習履歴に偏りがありますね。特定の状況で清掃優先順位が変動している。 泣いてる子の前で花を運ぶとかですか、と担当者が乾いた声で言う。真白は言い返しかけたが、その前に七瀬が杖をついて進み出た。 その子は、あの花で泣きやんだの。異常の名前が何であれ、私は見ていたわ。 続いてトワ、ミモザ、スピカ、ハコベ。どの機体にも致命的な故障はない。だが、説明しづらい行動履歴だけが、どれにも小さく残っていた。利用者の声紋や生活時間帯、室温や心拍、過去の指示の組み合わせ。そのどれかで再現できそうで、最後の一歩だけが数式にならない。主任は何度か端末を操作し、やがて言った。 不具合として一括更新する判断は、少し早いかもしれません。 その一言で空気がわずかに緩んだ、まさにそのときだった。管理人室の古い時計が、こつん、と鳴った。続けて二度、三度。今まででいちばんはっきりした音だった。全員がそちらを見る。止まっていたはずの秒針が、震えるように進み、四時十二分から四時十三分へ渡った。 玄関の自動扉が開く。誰かが帰ってきたのではない。外にいたのは、前任の管理人だった。小柄な老人は驚いた顔で帽子を取り、遅くなって悪いねえ、と言った。点検の話を聞いて、倉庫の鍵のことを伝え忘れていたのを思い出したらしい。 あの時計、壊れてたんじゃないんですか、と真白が思わず尋ねる。 老人は目を細めた。 壊れてはいたよ。でもね、あれ、昔ここがまだ社宅だったころ、夜勤明けの人が帰る時間だけ進むって有名でね。直しても直しても、なぜかそうなった。 笑い話みたいに語られたその由来に、誰もすぐには笑えなかった。時計はまた、こつんと鳴る。主任は古い文字盤を見上げ、端末を閉じる。 安全性の確認は継続します。ただ、全面更新案は保留にしましょう。ここで積み重なった運用実績も、無視できません。 安堵の息が、建物のあちこちで静かにほどけた。由衣はミモザの頭を撫で、穂高はスピカに向かって小さくありがとうと言った。朝倉はその光景を見ながら、何か設計図の線を引き直すみたいな顔をしていた。真白はふしぎ記録を胸に抱え、鳴り終えた時計を見つめる。正体は、結局わからないままだ。けれど、わからないからこそ消えずに残るものがあるのだと、今ははっきり思えた。 ひかり荘の朝は、そこでようやく本当に明るくなった。
ひかり荘、応答の余白
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