エラベノベル堂

豚汁謎解き帖

全年齢

小説ID: cmneojn6p000y01q73fldr3wi

6章 / 全10

最初の一杯を審査員へ渡すとき、私は紙椀の縁につく湯気まで整えるつもりで両手を添えた。会場にはまだざわめきが残っていたが、その揺れはさっきまでの不穏さとは少し違う。何が起きたのか知りたい、でも最後は味で決まってほしい。そんな空気が、広場全体を静かに引き締めていた。 審査員の一人である和食店の店主が、まず香りを確かめるように目を細めた。次にれんげを沈め、口へ運ぶ。ほんの短い沈黙のあと、表情がゆるむ。その変化を見た瞬間、胸の奥で固まっていたものが少しだけ溶けた。 二人目、三人目も続けて口にする。甘みの出方、豚の旨み、味噌の余韻。鍋の中で何度も確かめた線が、ちゃんと舌の上で一本につながっているのがわかる。真帆が横で小さく息を吐き、結衣は配膳の手を止めないまま、目だけで私に笑いかけた。 やがて一般の列にも椀を渡し始めると、受け取った人たちの顔が次々にほどけていった。丸新青果のおじさんは、大根、ちゃんといい顔してるなと笑い、杉本さんは、豚の焼きの香りが生きてると腕を組んでうなずいた。福田さんは何も言わずに一口すすり、目元だけで深くうなずく。その仕草が、どんな言葉よりうれしかった。 背広の男はいつの間にか広場の端へ下がっていた。責める声が飛ばなかったのは、皆が見ていたからだと思う。細工よりも、立て直した鍋のほうがはるかに大きく場を動かしたのだ。駅前カフェの店長が自分のブースから出てきて、私たちの鍋を見ながら言った。 見事ですね。ああいう場面で、味で返すのは簡単じゃない。 私は少し迷ってから、そちらのスープも楽しみにしてます、と返した。店長は意外そうに笑い、うちも負けられないなと言って持ち場へ戻っていった。対立の火が、別の熱に変わっていくのがわかった。 結果発表の時間、広場は再び大きな鍋のふたを開ける前みたいな緊張に包まれた。司会者が三位、二位と読み上げる。料理部の名前はまだ呼ばれない。真帆が私の袖をつかみ、結衣は祈るみたいに手を握っていた。 優勝、駅前カフェ。 一瞬、耳の奥が白くなった。でも次の拍手は不思議と悔しさだけを運んではこなかった。カフェの店長は壇上でこちらを見て、はっきり会釈した。そして特別賞として、商店街つなぎ賞の名が読み上げられた。料理部、朝倉菜々さんたちの豚汁。会場を守り、店の味をつなぎ直した一杯に、という言葉とともに。 私は呆然としたまま前へ出た。優勝ではない。でも受け取った拍手は、順位以上に温かかった。店主たちも、部員たちも、さっきまで並んで食べていた人たちも、みんな同じ方向を向いている。その真ん中に立ったとき、ようやくわかった。私たちが守りたかったのは、一位の札だけじゃなかったのだ。 帰り際、提灯の赤が夕暮れににじむ中で、篠崎先生が言った。料理は勝ち負けの道具にもなるけど、本当は人の席を増やすものなんだよ。 私はまだ豚汁の香りが残る指先を見て、静かにうなずいた。次は優勝を取る。けれどその先で、もっと大きな鍋を囲める人になりたい。そう思った。湯気の向こうに見える道は、最初よりずっと広くなっていた。

6章 / 全10

TOPへ