エラベノベル堂

豚汁謎解き帖

全年齢

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7章 / 全10

「待ってよ、彩花」 屋上の扉が閉まる直前、香織は息を切らしてその背中に声を投げた。夕方の風はまだ冷たくて、手すりの向こうでは校舎の窓が茜色を返している。彩花はレシピ帳を胸に抱えたまま、振り向きもしない。 「止めないで。もう、私には無理」 「無理なのは分かる。でも、そのまま持っていかれたら、もっと崩れる」 「崩したのは凛桜でしょ」 鋭い声だった。香織は一歩近づき、両手を少し上げる。 「そう見える。でも、全部を一人のせいにしたら、たぶん違うものまで壊れる」 彩花はようやく振り向いた。目元は熱を帯びているのに、声だけが妙に平らだった。 「じゃあ何。私が我慢すればよかったの」 「我慢じゃない。見直すんだよ」 「何を」 香織はレシピ帳に視線を落とした。何枚も重ねられた紙の端は、使い込まれて少し丸まっている。 「この豚汁、最初からずっと同じじゃなかったんじゃない?」 「は?」 「ほら、祖母から教わった味、母の入れ方、代々の部員が少しずつ直した記録。去年のメモにも、その前のノートにも、細かい違いが残ってた」 彩花の眉がわずかに動く。 「そんなの……」 「あるよ。定番って、完全に固定された答えじゃない。文化祭の豚汁は、毎年少しずつ継がれてきたんだって。私、今さら思い出した」 「……嘘」 「嘘じゃない。去年の分量も、一昨年のものも、ほんの少しずつ変わってる。誰かが勝手に壊したんじゃなくて、みんなで微調整して、今の味にしてきた」 彩花はレシピ帳を抱く腕に力を込めた。怒りの置き場が、音を立ててずれていく。 「じゃあ、私が守ってたのは何」 「守ってたのは、味そのものじゃなくて、続ける気持ちだったんじゃない?」 その言葉に、彩花の唇が震えた。 「……でも、凛桜は黙って変えた」 「うん。そこはよくない。隠したのも、みんなの記録をいじったのも、間違いだよ」 香織ははっきり言った。けれど続ける。 「でも、誰か一人を責めて終わる話でもない。正解が最初から一つなら、毎年あんなに味が揺れないよ」 彩花はしばらく黙っていた。風が髪を揺らし、レシピ帳の紙をかすかに鳴らす。 「……私、ずっと、同じにしなきゃって思ってた」 「うん」 「違ってたら、全部ダメになる気がして」 「違ってても、続けられることはある」 そのとき、彩花の手元からレシピ帳が少しだけ緩んだ。抱え込むみたいだった腕に、ほんの少し余白が生まれる。 屋上の端で、風が一度だけ強く吹いた。香織はその隙に気づく。責めるための言葉ではなく、見方そのものを変える必要があるのだと。 彩花はレシピ帳を見下ろし、ぽつりと呟いた。 「……じゃあ、私たちの豚汁って、何なんだろう」

7章 / 全10

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