「その答えを、今ここで出す必要はないかもしれない」 香織はそう言ってから、扉の外で足音が近づく気配に気づいた。だが、開いたのは見知らぬ誰かではなく、古びた資料箱を抱えた女性だった。白衣ではない、けれど立ち居振る舞いには現場を知る人の落ち着きがある。 「遅くなってごめんなさい。元栄養士の篠原です。地域センターの台所を借りているって聞いてね」 彩花が警戒したまま眉をひそめる。 「学校の人じゃないんですか」 「ええ。けれど、昔この学校の献立に少し関わっていたの。あの乾燥野菜のことなら、説明できるかもしれない」 香織は思わず身を乗り出した。 「あれ、やっぱり普通の業者品じゃないんですか」 篠原は箱を机に置き、包み紙をほどいた。中には、見慣れないがどこか素朴な色の乾物が丁寧に並んでいる。 「これは祖母の故郷から送られてきた保存食よ。長く持つように干してある。凛桜さんは、病室で食べた記憶に近づけたくて、これを少しだけ使ったはず」 凛桜の肩が、かすかに揺れた。 「……どうして、それを」 「手紙のやり取りが残っていたの。味を再現したい人がいるなら、材料の意味も一緒に伝えたほうがいいと思って」 彩花は唇を結んだまま、箱の中身を見つめる。怒りの色はまだ消えない。けれど、乾物の匂いを吸い込むうちに、その奥にある遠い土地の気配まで感じ取ってしまったようだった。 香織は次に、机の上の買い出しメモへ目を向けた。細い文字の一部が、別の筆圧でなぞられている。 「これ……書き換えた跡、やっぱりある」 篠原はうなずいた。 「文化祭の予算が足りないのを、別の生徒が隠そうとしていたのね。材料を減らした数字を、合っているように見せたんでしょう。悪意というより、騒ぎにしたくなかったのかもしれない」 彩花が息をのむ。 「予算不足……」 「ええ。だから記録だけが不自然になった。誰かを傷つけるつもりでやった改ざんじゃない。でも、隠せば隠すほど、別の疑いを呼ぶ」 部屋の空気が、静かに組み替わる。香織はようやく、鍋の違和感と紙の改ざんが別々の線ではなく、一本の複雑な輪になっていたことを理解した。 凛桜は乾物を見つめたまま、小さく息を吐く。 「私、ただ……祖母の味を戻したかっただけなんだ」 「分かってる」 香織は頷いた。 「でも、それと予算の隠し事は別だ。ここを一緒にしちゃいけない」 彩花も、少し遅れてうなずく。まだ完全にはほどけていないが、怒りの向きが変わり始めていた。 「つまり、凛桜が全部やったわけじゃないんだ」 「そう。事件は、もっとぐちゃぐちゃだった」 篠原は箱を閉じ、三人を順に見た。 「だからこそ、味もまた一つじゃないのよ。ひとつの記憶を大事にしたい人と、別の約束を守りたい人が、同じ鍋の前に立っている」 香織は息をつき、湯気の立たない空の鍋を見た。まだ答えは出ない。けれど、見えていた敵の輪郭が崩れた今なら、次にすべきことが少しだけ分かる気がした。 「……もう一回、最初から整理しよう」 その言葉に、凛桜が小さく顔を上げる。彩花も、箱の中の乾物へそっと視線を落とした。 深夜の実習室には、古い保存食の匂いと、ほどけかけた誤解の気配だけが静かに残っていた。
豚汁謎解き帖
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