エラベノベル堂

改札鋏に鳴る約束

全年齢

小説ID: cmnepteze000001nwkk1ko1yc

8章 / 全10

発車の合図が鳴ると、トロッコ列車はいつものようにゆっくりと動き出した。けれどその朝の空気は、普段よりも少しだけ張っていた。車内には町の古い記憶を知る人と、何も知らずに景色を楽しみに来た人が同じように座り、木の座席がきしむたび、別々の時間が一両の中で触れ合っているようだった。悠真は乗り込み口でひとりひとりの顔を見ながら、胸の内で原稿の言葉を確かめた。 最初の案内はいつも通り、川筋の説明と山の稜線の話から始めた。乗客たちの肩が少しほぐれたのを見てから、悠真は声の調子を静かに変えた。この路線には、長いあいだ持ち主のわからないまま残されていた品がありました、と。返されなかった切符、配られなかった鈴、渡しそびれた手袋。それらは失われた物ではなく、受け取り手を待ち続けていた言葉のようなものだったのだと語る。誰かを責めるためではなく、町に残っていた願いを受け取るために、今日それを展示しているのだと伝えた。 車内はしんと静まり、車輪の響きだけが続いた。前方の席で、年配の女性が膝の上の鞄をきゅっと抱きしめているのが見えた。終点に近づくころ、資料館へ先に向かっていた篠崎から無線が入る。展示を見た人たちが、ぽつりぽつりと昔のことを話し始めています、という声だった。その報告に、悠真の胸の奥で固まっていたものが少し溶けた。 終点跡に着くと、澪がホーム脇で小さく手を振っていた。資料館の臨時展示室には、保管箱に入っていた品々とともに、町の未来を願うメモの一節だけが並べられている。名は伏せられ、責任を断ずる説明もない。それでも見に来た人たちは十分に何かを受け取っていた。昔駅で働いていた男が、あの頃はみんな余裕がなかった、と低く言い、別の老婆が、待っていた人もいたんだよ、と続ける。責める口調ではなく、確かめるような声だった。 そのとき、年配の女性が展示ケースの前で立ち止まり、毛糸の手袋を見て目を潤ませた。姉の編み方に似ている、と呟いたあと、しばらく黙り込み、それからようやく、昔、返ってこないまま諦めたものがあったの、と話しはじめた。言葉は途切れがちだったが、それに応じるように別の人も、あの日誰かを悪く言いすぎたかもしれない、と口にした。長年胸につかえていたものが、少しずつほどけていく音を、悠真はたしかに聞いた気がした。 胸ポケットの改札鋏に触れる。冷たい金属は静かだった。もう鳴らないのではなく、鳴る必要がなくなったような静けさだった。忘れ物は見つかったのだ。物ではなく、受け取られるはずだった思いのほうが。 午後の折り返し便に乗り込む直前、悠真は空を見上げた。夏の雲が高く流れ、廃線跡の向こうで風が草を揺らしている。列車はこれからも景色を運ぶ。だがそれだけではない。人が言えなかったこと、渡せなかった気持ちを、次に来る誰かへ手渡していく。その役目を、自分はもう見習いではなく引き受けていくのだと、悠真は静かに悟った。

8章 / 全10

TOPへ