夕方の広場には、神殿の影が長く伸びていた。石敷きの中央に簡易の机が並び、国際調査隊の面々がその周囲を囲む。葵は胸の奥がざわつくのを押さえながら、理仁が整えてくれた資料束を抱えて前へ出た。 「これが、昨日から整理していた壁画の拡大写しです」 布を広げると、ひびの連なりと炭でなぞった輪郭が夕光に浮かぶ。葵はその一部を指で示した。 「この配置、地下水路と重なっています。偶然の割れ方じゃない。地盤の弱い場所を示している可能性があります」 ざわめきが起きた。真斗は腕を組んだまま、机越しに彼女を見下ろす。 「それで発掘を止めろと?」 「止めてほしいんじゃない。少なくとも、危険を無視して掘り進めるべきじゃないって言ってるんです」 「予算は限られている。ここまで掘って成果が出ている以上、強行する価値はある」 葵は息をのみ、資料の別紙を重ねた。 「成果の前に、都市そのものが壊れたら意味がありません。壁画は修復痕の下でも同じ形で続いていました。誰かが意図して残した可能性だってある」 「可能性の話ならいくらでもできる」 真斗の声は冷たかった。周囲の調査員も、顔を見合わせるだけで言葉を挟まない。 「証拠不足だ。判断は保留する」 その一言が、広場の空気を締めつけた。葵は資料を持つ手に力を込める。 「保留している間に、もし崩れたら」 「その責任は、断定できる段階で考える」 理仁が小さく息を呑んだのが分かった。葵は唇を噛み、拡大写しを机の上に真っすぐ置く。 「じゃあ、私は記録を残します。無視されたとしても、壁画はここにあります」 誰も返さない。砂を含んだ風だけが広場を渡っていく。葵は真斗の視線を受け止めたまま、胸の奥で静かに何かが軋むのを感じていた。届いたはずの警告は、まだ石の上で宙に浮いたまま、夕闇に溶けていこうとしていた。
壁画ひび割れ予兆録
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