燈子は一歩も引かなかった。回廊の狭さが、かえって彼女の背骨をまっすぐにした。ラシードの背後で警備員が戸惑うように視線を泳がせているのが見える。ここにいる全員が、石盤の水の震えを確かに見たはずだった。にもかかわらず、言葉だけがそれをなかったことにしようとしている。 「不安を広げるんじゃない。避けられる危険を知らせるだけです」 燈子がそう言うと、ラシードは低く息を吐いた。 「君は修復師だ。解釈の責任まで背負う立場ではない」 その言い方に、燈子は胸の奥で冷たい火が灯るのを感じた。壁の表面を整える者は、壁が伝えようとすることに触れてはいけないのか。古い傷を読む技術は、都合のいいときだけ必要とされるのか。彼女は返事の代わりに複写図を開き、石盤の線と壁画のひび、さらに都市地図の重ね合わせを床に示した。 「責任なら、見て見ぬふりをした人にもあります。南西の居住区に近い地盤が動きます。その前に水が偏る。井戸の水位を確認して、宿舎の一部を空けるべきです」 ミラもすぐに続いた。 「東区画の測量値も合います。昨日から基準杭がわずかに沈んでる。誤差として処理されましたけど、同じ方向です」 管理担当の男がラシードを見た。迷いが、そのまま沈黙の形になっている。ラシードは数秒考え込み、やがて声を落とした。 「公式な発表は私が判断する。それまでは資料を提出してもらう」 その瞬間、足元でかすかな揺れが走った。棚の上の砂がさらりと落ち、石盤の残り水が星形の溝に沿って南西へ細く滑る。ほんの一息ほどの出来事だったが、部屋の空気は変わった。偶然と言い切るには、あまりにも整いすぎていた。 警備員が小さくつぶやいた。 「今の、感じました」 ラシードの表情に初めてひびのような乱れが入る。燈子はその隙を逃さなかった。 「十分です。全員を動かす大騒ぎにしなくていい。まず南西区画の井戸と居住用天幕だけ確認してください。理由は地盤点検でいい」 名目を与えれば、人は動ける。真実そのものより、受け入れられる形が必要なことを燈子は知っていた。ラシードはなお反論しかけたが、管理担当が先にうなずいた。 「井戸点検なら手配できます」 ミラも扉の方へ一歩出る。 「私、測量班に連絡します」 歯車がかすかに回り始めた。だが燈子の胸に広がったのは安堵より、むしろ切迫感だった。壁画の警告が示す順序では、これは始まりにすぎない。小さな揺れと水の偏り。その次に来るものが、まだ神殿のどこかで形を結びつつある。 ラシードはついに道を空けたものの、その目は燈子ではなく石盤に注がれていた。恐れているのか、欲しているのか判別のつかない目だった。燈子はその視線に、隊内の不一致がまだ終わっていないことを悟る。誰かは都市を守ろうとし、誰かは発見を守ろうとしている。そしてその差は、砂嵐より静かに人の足をすくう。 回廊を戻る途中、神殿上部の壁に新しい細線が一本、生まれかけているのを彼女は見つけた。鳥の列の先、水路の青のさらに向こうへ伸びる、ごく薄い傷。まるで石そのものが息を詰め、次の言葉を書こうとしているようだった。
壁画ひび割れ予兆録
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